 |
 |
■■■
■■
■ 燃えさかる炭の上で
眠れなくなるといけないので、この頃は
寝る前にはPCは開きません。
だけど、昨日の夜は何だか気になる聖書の個所があって
夜な夜なPCで調べ始めました。
清水武夫先生がうちの教会にいらしたときの
説教がないかなと思ったのです。
でも見つからず、その代わりとある牧師のブログ
にたどり着いて、
写真を見たら、なんだ!知ってる人でした。
その中に、清水先生のことが紹介されていて
そこからこの説教を見つけました。
イザヤ6章のイザヤの召命の場面です。
→ 「聖なる者であること」 清水武夫
聖い栄光の神様を見てしまったイザヤは
罪深いくちびるの汚れた者ですから
その場で即死んでしまうはずでした。
けれど、イザヤの口に燃えさかる炭が当てられます。
その炭が何で炭なのか
その意味を今までよく分かっていませんでした。
また
自分たちの盛んな集会やささげものを
主の前で誇りとし、自分の良さを神にアピールして
神からの報いを要求する罪について
イザヤ64章では
「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」と
記されています。
それは本当に自分も陥りやすいこと。
今も、未来の世の終わりの時も
汚れた私が聖い神様の御前に立つことができるのは
どうしてなのか。
このクリスマスのとき
その意味を考えていきたいです。
上のリンク
長いものですが、とてもいいので
良かったらどうぞお読みください。
2022年12月06日(火)
|
|
 |