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■ 神の作品

エナガちゃん
今日の礼拝は宗教改革記念礼拝でした。
聖書のみ
恵みのみ
信仰のみ
キリストのみ
神の栄光のみ
聖書はエペソ2:8〜10でした。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって
救われたのです。それは、自分自身から出たこと
ではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも、誇ることの
ないためです。
私たちは神の作品であって、良い行いをするために
キリスト・イエスにあって造られたのです。神は、
私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをも
あらかじめ備えてくださったのです。」
「神の作品」は「キリスト・イエスにあって造られた」
とあるので、最初の創造のことではなく、再創造、
つまり「救われたクリスチャンは」の意味だそう。
牧師は「作品」を絵にたとえて、
ゴッホの絵、シャガールの絵、ピカソの絵etc・・・
とそれぞれ違うけれど、皆すばらしい神の作品で
教会はそれが集まった美術館だと言いました。
最初の創世記の創造でも、「それは非常によかった」
とあるとおり、私たちはすばらしいものとして
造られました。
けれど、アダムとエバがそれに自分勝手に手を加えて
しまって、せっかくの絵を台無しにしてしまいました。
それが罪。
それをもう一度取り返すために
神様が御子イエスを世に遣わし、十字架で絵の具を
拭きとってくださって、元のすばらしい作品に戻して
くださいました。
救いは恵みのみ。
自分の行いで救われたのではありません。
信仰は神の恵みを受け取る手。
誰であっても、十字架の恵みを信じ、受け取ることで
救われます。
そして、恵みで救われた者は、行う者になっていく。
良い行いをするためにキリスト・イエスにあって
作り変えられました。
その私の良い行いが何なのかも、神さまがあらかじめ
備えてくださっています。
この順番が後先になったり、ごちゃまぜになって来ると
自分の義を立てたり
クリスチャン同士で信仰の熱心さを競ったり
逆に自分なんてだめだと自己卑下したり
するんでしょうね。
牧師は、神の作品なんだから、変に謙遜していないで
神様のしてくださった素晴らしさを世に見せていけと
言いました。
それを聞いていて
マタイの5章「世の光」を思い出しました。
あかりは、升の下に置かないで、燭台の上に置きます。
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの良い行いを見て、天におられる
あなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
(マタイ5:16)
それともうひとつ
マタイ6章の「右の手のしていることを、左の手に
知られないようにしなさい。」
「隠れたところで見ておられる父」
も思い出しました。
「見せる」と「見せない」で
どう考えたらいいのかな?
「見せる」のは「父のわざ」
「見せない」のは「自分のわざ」
その動機が
「素晴らしい神様を知らせたい」のか
「皆の目、神の目を自分自身へと向けさせたい」のか
なんでしょうね。
気をつけていないと、いつのまにサタンにすり替え
られてしまいます。
両手に御霊の剣を。
2022年10月30日(日)
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