書泉シランデの日記

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古典の講演会・展示会
2005年11月01日(火)

国文学研究資料館の講演会に行く。
聴衆は200名近いが、驚くほど年齢層が高い。ぎょっとするほど高い。
「古今集から新古今集へ」と題した、事前申し込み制の連続講演だから、思いついてすぐに出席、というわけにはいかないせいもあるが、年金をもらっていそうな年恰好の人がほとんどである。

平日の昼間だから労働年齢の人は来られないということはわかる。でも学生は?それにカルチャーマダム族は?とにかく会場に若さ、華やかさはゼロ。要は古今集だの新古今集だのでは、どんなに立派な講師でも関心が集まらないということなのだろう。こんな体たらくでは、あと10年もしたら、講演会を開いても閑古鳥が鳴くに違いない。

大体、今年が古今集奏覧1100年、新古今集竟宴800年だということを知る人がどれだけいよう?けばけばしい記念切手は出たけれど、「日本におけるドイツ年」とかいうほうがまだ認知度が高いのではあるまいか。

同時に古今集・新古今集関係の展示があった。立派なものも沢山出ていた。出ていたが、いかんせん説明が一般の人に向けて書かれているとは到底思えない。ムズカシスギル。一般公開の成果として入場者数は大事だから見せてあげるけれど、中身はわからなくていいのよ、ということだろうか。

もちろん専門的な施設であるし、ある種の事柄は専門用語を使うしかない。先ほどつかった「奏覧」なんていうのもそうだ。(勅撰集は出来たものを天皇に見せることで完成と見なす。その見せる行為が「奏覧」。ただの「完成」ではどの時点を指すか、かなり揺れが生じる。・・・ここで「勅撰集」って何よ?という問があっても驚きはしないが、勅撰集が何かは高校で学習済みのはず。)

だから、ある程度専門的なことを語ろうとすれば、それ相応の用語がいることはわかるのだが、それ以外の部分でもひどく古めかしい表現が多用されていることには抵抗を通り越して、腹が立つ。たとえば「蔵儲」、ゲットしてキープすることだが、漢和辞典を引いたって手元の中辞典程度ではそんな言葉が出てこない。

人文系の研究機関は多くの人の支持がないと潰されかねない。経済に何も貢献できない存在は、今のこの国では穀潰しでしかない。それを避けるためには、生涯学習の機会にもっと工夫を凝らして、古典も楽しいな、と思ってもらうことが大切ではないか。研究者ばかりを相手にしていたのでは、先細り必至である。内輪での高い評価と同等に、一般来場者の「ためになりました」「おもしろかったです」の一言をもっと大切に考えるべきだ。

まずは高校を卒業した程度の現代人にわかりにくい修辞は使わない。専門用語での解説が専門家のために必要だとするなら、用語解説のハンドアウトを配布するなど、わかりやすくする方法はあると思うのだけれど。

こんなんじゃ、本当に先々心配。古典文学愛好者はいまやトキのキンちゃんみたいなもんですよ。



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