書泉シランデの日記

書泉シランデ【MAIL

My追加

高校の漢文
2005年09月22日(木)

マンガの『三国志』に触発されて、―感動してではない―、『古文真宝』など取り出し「赤壁の賦」や「出師表」なんかを読み直した。読み直すどころか、そんなものを読むのは高校の漢文以来である。

今読めばなかなか立派なことが書いてあって、赤壁なる場所へ行って、小舟を浮かべ、酒は飲めないので、お茶でも飲んでみたいものである。

だが、高校生にはとてもわかるまい。私は人並みよりは古文漢文出来たほうだと思うけれど、漢文はその口調以外には、何がありがたいのかよくわからなかった。当然のことが鹿爪らしく書いてあるだけのような気がした。

高校生には天地の変幻だの、人のはかなさだの、或は、宇宙的な生命という観点からの自他同一だの、そんなことは観念的にしかわからない。実感できないと思う。風や月は無料だなんて、冗談じゃない、当たり前すぎる。それで感動せよ、というほうが御無体というものだ。

「出師表」とて同様で、人生がいろんな人といろんな形でリンクしていて、人が生きるためには、なんらかの精神的なものが必要だということを日々の中で感じるようにならない限り、「これって勤務評定?訓示?」としか読めない。

年をとることの楽しみは古いもののよさが見えるようになることだ、と思う。(その代わり、今のものに興味が薄れる。)

最近の学校では、漢文の時間激減だし、正直、教師だってどのくらい読めるのか怪しいものだと思うが、漢文って日本が中国文明の一角(辺境)に位置するということを認識するために絶対必要な教養ではなかろうか。「新しい歴史教科書」の人たちは、教科としての漢文については、どういう考え方を持っているのだろう?

最初の『三国志』に話を戻すが、マンガ『三国志』的なものだけで、あの話が何百年も生き続けたとは到底考えられない。マンガはつまらないが、ネタは面白そうなので、これはぜひとも原作にあたらねば、である。



BACK   NEXT
目次ページ