書泉シランデの日記

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見送るちから
2005年08月18日(木)

今日あたりは、私が仕事をしている横で静かに横たわる老犬という構図で過ごした。(実際にはその横に広げっぱなしの資料やら、昼寝用の枕やら、いろいろ転がっているが)

老犬もあまり食べないので、気分はもうはっきり言って「お見送り」に傾く。

見送る技術、というか、心というか、そんなもの、赤ちゃんがどこから生まれるかと同じくらい、昔の大人には常識的なことだったのだろうと思う。口から物が食べられなくなったとき、今ならすぐ病院へ行き、点滴にはじまっていろいろな手段で死ぬまでカロリーを確保するわけだが、そうするようになったのも、そう歴史が長いわけではあるまい。技術としては可能でも、費用や機会の点で、今のように一般化したのは、戦後しばらくたってからではないか。抗生物質でさえ入手困難な時代だった。(私の知り合いには、進駐軍に渡りをつけ、ペニシリンと神田の3000坪の土地を交換して命拾いをした人がいる。)

お年寄りが老衰死を迎える場合など、いちいち入院させもしなかったのではないか。死は自宅にやってきたのである。おそらく食事や排泄の様子から家族はだんだんそれを予感していったのだろうし、おかゆがおまじりになり、重湯になり、という過程を経ないではいられなかったはずだ(米がある家ならば)。

それがいまや犬一匹でこの体たらく。なんと生死に脆弱になっていることか。

見送るのは生き続けるものの勤めなのだろう。人がほんの少し前まで持っていた力なのだから、DNAが思い出させてくれることを期待しよう。



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