吉保と町子さんにこだわるわけではないが、大正10年 林和著『柳澤吉保』を読む。 大正10年の著作とはいえ、今でも十分価値あるところが、人文系の世界の特色である。理系だったら、「1920年、なにそれ?」ってなもんだろう。第一次大戦が終わってまもなくの吉保に関する伝記である。考えてみれば、伝記の資料は江戸時代の文献なのだから、大正10年に書かれようが、明治10年に書かれようが、役に立つものは役に立ち続けるのだ。違いといえば、対象を見る眼差しか。 昔の本はページ数の割りに軽い。もちろん用紙は酸化して、もろくなっているけれど、どうしてこんなに軽いのだろう?乾ききっているから? しかも、活字が大きくて、目に優しいこと限りない。(コピーをする立場からいえば、もっとつめてほしいけど。)見開きB5、1ページあたり37字×11行、総ルビ。ちなみに今の本だと、同じサイズで43×17くらいか。もちろんルビなんかない。こういう本はページが早く進むから、たくさん読んだような気がして嬉しいものだ。難点は手が汚れることか。 さて、内容は、というと、吉保の一生を語る熱い言葉の連続である。熱いだけなら、珍しくないが、その間の考証がとても充実している。吉保は流言巷説によって誤解されているから、自分は「浮かばれない怨霊」のためにこの伝記をものす、という執筆動機。確かに吉保といえば、柳澤騒動のろくでもないイメージが強いものね。救ってやりたくもなるさ。(しかし、ちなみに徳富蘇峰の『近世日本国民史』ではボロクソである。比べて読むと、考証の分はこの『柳澤吉保』にありそう。) それにしても、総じて戦前の本には著者の「世に訴えたい」という情熱を感じる。今では学術的な著作であれば、むしろそういう私情をはさまないクールなものが主流であるが、しかし、本来、「世に訴えたい」から発表するのが筋だろう。私情をぐだぐだ語られてもしょうがないということも確かにあるけれども、私情を殺せば客観的か、ということは再考の余地がありそう。
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