書泉シランデの日記

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『聖なる夜』
2005年02月22日(火)

『聖なる夜』  ターハル・ベン=ジェルーン

主人公は娘でありながら、息子として育てられた女性。たくらみの張本人である父親に死の床で真実を明かされる。母や姉たちを捨て、過去を捨て、自分を取り戻す旅に出る。

細かく書くとネタバレになるが、要は性と不可分の自己を確認し再生するのがテーマ。銭湯の番台の大デブ女に拾われ、彼女の家で盲目の弟の世話をしながら同居、娼婦を装っての彼との性交渉、過去に引き戻そうとする叔父の射殺、刑務所でのFGMなどと、こう書き連ねるとエキセントリックでさえあるが、決してそんな筆致ではない。体の物語というよりは意識の物語といえるかもしれない。砂がさらさらと流れるように、よどみなく語られる。

主人公は特異な過去をもつ個人であると同時にイスラム女性の人間としての権利回復の象徴だとも読める。こちらの勝手な思い込みかもしれないが、読み進めるにつれ、イスラム女性の顔や体を隠すベールをはいでいくような気さえした。

小説の面白さが十分に味わえる作品。ゴンクール賞の名にふさわしい。ただし、イスラム女性をどう描くかには別の立場からの意見も当然予想できる。最後の聖者が男というのも、あれれ?ではある。それでいいような気もするし、それしかないのかなあ、という疑念も生じる。

★★★
紀伊国屋書店


さて、上の作品はモロッコ人の手になる小説だった。イスラムの小説で翻訳されているものは決して多くない。そんなことでいいのかしらん?国際交流だ、多文化共生だといっていても、欧米文化以外を知る機会にはあまり恵まれていないのが現実である。もっと正確にいえば、欧米文化でさえ、20世紀中盤どまりかもしれない。(それをもっとも感じるのは美術・・・印象派から先は商売にならないのかしら?)

世界各地の同時代文学者を私たちはどれだけ知っているのだろう?

あと何年待ったって、イスラム文学がロシア文学と肩を並べるような時代にはなるまい。東南アジアの作家が中国の「魯迅」ほどにも人に知られるようにはならないだろう。いや、魯迅を忘れる速度のほうが速いかもしれない。

それに引き換え、明治大正の人はどれほど貪欲に世界からの知的刺激を求めたか、である。英独仏露の各文学作品を書棚に区分けしない図書館はないだろうが、その基盤を確立させたのは、間違いなく明治大正の人たちなのだ。えらいもんだ、と思うほかはないぞ。



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