きのう読んだ随想集の中の 「(調査の帰りの車では)いつもモーツァルトのピアノ・コンチェルト20番だった。アシュケナージのタッチに耳が馴れていて、体の隅々まで泌みわたって癒してくれるのを感じた。・・・左折の信号待ちあたりで二楽章に入る。これを聴くために仕事に出ているような気さえした。・・・」 という一節が印象に残っていた。 アシュケナージのモーツァルトPコンってもしかしてあれ?と棚を探してみたら、まさしく20番が出てきた。おそらく同じ録音だと思う。当然、改めて聴いてみたのだが、私にはとても意外だった。 20番は珍しく短調の曲。2楽章は相当美しいけれども、全体としては、私にとっては到底「癒し」の曲とは感じられない。どこかに翳りがあって、テンションが高くて、ほっと癒されるようなメロディーが長続きしない。若きアシュケナージのベートーヴェンとまがうような力演も、モーツァルトらしさを殺しているような気さえする。それが「これを聴くために仕事に出ている」とまで書かれるなんて・・・。 著者の心のひだひだの奥をちょこっと覗いたような気もするが、まさしくそんな気がしただけなのかもしれない。 さまざまな聞き手のさまざまな思いを宿しながら、それぞれの20番があるのだろうね。20番に限らず、モーツァルトに限らずなのだけど。
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