化粧品売り場で買い物をしたら、以前に買った美容液がまだあるか、と聞かれた。あると答えると 「お買い求めいただいてから1年近くたってますから、残っているのでしたら、どんどんつけてあげてくださいね」 自分で自分の顔に「つけてあげる」? 言葉は変化するものだから、私は基本的に「正しい日本語」という考え方はキライです。でも、「つけてあげる」? なんでそうなるのかね? 「つけてください」または「おつけになってください」でいいじゃないか。 そのわけを例によって電車の中で考えてみた。 ふつうは「〜あげる」というのは、モノのみならず有形無形の恩恵が相手方に移動するときの表現だ。はっきり目上、目下の関係でつかうのはあまり適切ではない。(目上なら「さしあげる」、目下なら「やる」。最近、「やる」を下品な言葉だと考える向きがあるが、それは誤解。私は老犬に「餌をやる」が、夫は「餌をあげる」という。) 話が横にいったが、自分から自分へ恩恵が移動するという感覚がひっかかるのである。たとえば、「足をもんであげたり、髪をといてあげたりした」という表現だけ聞いて情景を想像すると、おそらく二人の人物が出てくるであろう。たった一人でもんだり、梳いたりしている姿を思い浮かべることは、おそらくない。自分自身の体の一部には使わない表現なのだ。自分の背中は「かく」もので、「かいてあげる」ものではない。 じゃあ、どうして売り子(差別語?)はそういうのか? 想像するに、販売員の講習会で、美容部員の親玉が「お客さまの目元につけてあげてください」なんぞというのではなかろうか?それをそのまんまノートして、あるいは暗誦して使うから、変てこになるのではないか。「つけてさしあげてください」は美容部員にはちょっと難しいのかな。それともそういえば、そういったで今度は販売員は「つけてさしあげて」というのかしら。 日ごろ使い慣れない言葉を使うから馬脚を現わすことになる。でも、馬の足でも人の足だと思う人がふえれば、それで立派に人の足として通用する。言葉ってそういうものだから。でも、そうなると、私なんぞは逆に馬の足だか豚の足だか、う〜ん暮らしにくくなるぜ。 過日、某宗教団体の人はインタフォンに出た私に「私の話を伺ってください」とのたもうた。「そんな言葉使いをする人の話を伺う気にはとてもなれない」と答えた。そのうち「伺ってください」「はい、伺います」になるのかなあ? どうでもいいついでに「承ります」が「受け賜ります」と書かれているのをみると、私相当いらついてしまうんだわ。未熟者です、はい。
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