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『本居宣長 言葉と雅び』
言語についての宣長の論考を手がかりとして、宣長の思想を論じている『本居宣長 言葉と雅び』を読書中。残り3分の1くらい。中身の妥当性を云々するほど、私には宣長のことはわかりません。わかりませんが、歌論書も思想的著作として読み解くと面白いものだなあ、と感じないではいられない。著者の菅野覚明氏の力量によるところも大きそう。素人に読ませるから、と内容を薄めたりせず、それでいて素人にもわかる、という書き方が出来るのが本物の学者である。しかも原文の引用に現代語訳が付されているあたり、とても親切。
思うに、高校の古典教育は情緒的な部分に偏りすぎていないか?今は偏るどころか、ろくに習得されていないのが現実だけれど、本当に『源氏物語』を原文で読むことをめざさなくてはいけないのだろうか?女流日記だの隠遁者の随想なんか今の高校生に読ませたって仕方がないのではないか、と思う。説話だってアホラシ、と読み捨てて終わりでしょうに。そんなものを読ませるよりは、近世のものでいいから、少し思想的な主張のあるもののほうが、話が理屈だけになる分、共感しやすいのではないかなあ、と思ったりする。あるいは、ぐっとレベルを下げて武士や町人の処世訓みたいなものでも、いいたいことがわかりやすくてよいかも。物語でも、近松の心中物なんかはテンポがいいし、展開を追いやすいよね。
だいたい室町以降のものは文法的に現代語に近いから、ちんぷんかんぷんということはないはずだ。平安語で書かれた全然わからないものを現代語訳させて(覚えさせて)古典を読ませたことにしても、何にもならない。古典はつまらないという印象を与えるだけ、しないほうがいいのではないか。たぶん多くの生徒は、古文は大学入試のために必要だという以外には意義を見出せないのではなかろうか。
ごく一部の関心の高い生徒には従来どおりの古文を選択させてもいいが、一般の生徒には、平安ものは読ませないで、近世の随筆や思想書の抜粋を読ませ、明治初期の文語文の論文(北村透谷など)を読ませて、「古文」ということにするといいんじゃないかという気がするが、高校の先生はどう思うのだろう。少なくとも従来型の古文は大人にならないと真価がわかりにくいと思うのだが・・・下手に教えて日本語の言語的な遺産を反故同様にする のは絶対によろしくないよね。そういう私は高校生のとき古文はどうも好きになれなかった人です。
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