近所の電気屋さんに頼んでつけてもらったお風呂の暖房機、イマイチ調子が悪くて見て頂戴と頼んでおいたら、今朝、夫も私も家を出た後に、朝9時頃見に来てくれたそうだ。息子在宅で助かった。具合悪かった部分もうまく直ったようだ。 このところ、物騒なことも多いから、身元のはっきりしない人に家に入ってはもらいたくない。近所の電気屋さんはやっぱり高いけれど、今日のようなときにはありがたい。これが○ジマで買ったものなら、修理といっても、なかなか厄介である。こうして朝イチにちょっと見てくれるだけでも助かるし、地元電気屋さんは我家より絶対資産家だから、ことと次第では留守中にやってもらうため鍵を預けてもいいとさえ思う。 安心感、信頼性、コンサルティング能力など、目に見えない部分への対価は支払うべきお金なのではないかしら?価格破壊の掛け声にのって、少しでも安いものを買うのがよいことのように思われていたけれど、安ければよいのではなく、誰もが適正な利益を得られるような社会であるべき。(そういう意味で百円ショップでは買いたくない・・・底辺の労働者を酷使して、資本家に儲けを集中させるようなシステム。) 電化製品についていえば、故障というものがある時点から非常に少なくなって、それとともに「アフターサービス」ということのありがたみが感じられなくなった。そのうち、直すより買い換えるほうが安いといわれるようになった。しかし、本当にそうだったのだろうか?買い換える決心をするときには修理費との比較もさりながら、新製品の機能性に心ひかれたのではないか?売るほうもまた、そのほうが利幅が大きかったから、あえて廉価な修理をしなかったのではないか?(もちろん人件費の高騰とか生産体制の変化によるコストダウンもあったには違いない。) その結果、消費者は、アフターサービスの利便性など問題にしないで、そのときの価格だけを見て量販店で買うようになった。町の電気屋さん自身が自らの首を絞めた部分もあったはずだ。 ところが、世の中の治安が悪くなり、人が信じられなくなり、私は町の電気屋さんを見直している。それだけでなく、家電のシステム化、情報化のわずらわしさを、「とにかくうちへ来て、何ができるか見て頂戴」の一言で片付けられる手軽な専門性も便利なところだと思う。これから復権が本格的になるかどうかはひとえに電気屋さんの腕次第・・・あれあれ、電気屋さんのことでやけに饒舌になっちまった・・・。
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