| 2006年06月26日(月) |
着地できない愛の行方も |
初めて原作を読んだとき、あたしはアンテが苦手だった。 本来純粋であるあずの好きという気持ちが、うまくいかないゆえに別のものに向けられてしまうもののむなしさに。 当時10代(だったかなあ?)であった自分にもきっとある子供っぽさと卑しさをみるようで嫌だったのかもしれないと思う。 その時の自分がどうであれ、 もっと精神の高みに自分が上がれると思っていたのだと思う。
おとなになってある程度落ち着いてから原作を読んでも、だからあたしはアンテは許すことはできなかった。 一方的なオスカーへの思慕も、 トーマを利用しての茶番劇も、 エーリクへの理不尽ないいがかりも。 この子は、人の気持ちを考えずに、ただ自分の気持ちを認めてもらおうとする、まあ、なんて自分勝手な人だろうと思っていた。 スタジオライフの『トーマの心臓』はどうして最後にアンテが最後にいるんだろう?とで思っていた。 高みに登ってゆくユーリを見守る認識者としては役不足なのではないかと。
それが……。
あたしは吉田アンテで納得しました!!
吉田さんのアンテには愛を乞う卑しさはなかった。 ただ人を思う、苦しさと悲しさと怒りとじゅんすいさだけがある。
彼はオスカーだけをみている。 恋は、若いときの恋は、それであってもいいのかもしれないと自分のずっと考えていたことを揺るがす一筋の想い。
そのために人に媚びる、おもねる、中傷する。 なのに、その瞳の底に、もとめているものが本当に、振り向いて欲しいだけの愛でしかなかったから。
自分がしたことの大きな代償を知った時のアンテは、苦しむ。 「こないでっ」 と叫ぶ。
「おまえのせいじゃない」 愛ゆえに妻を殺した父と、夫を愛しているのに殺された母を持つオスカーは理不尽な出来事に殴る位のことはできるけど、それ以上の罪を彼が背負うのは許さない。 「きみのせいじゃないよ」 トーマの本を探りながら読むレドヴィは、トーマの声を担う。
自分の前にでてきた現実とそれを救おうとしてくれる人々の存在。 自分はトーマにとって、学校では多分一番近しい友達だったのかもしれないのにその友達の本心を知らずにけしかけた自分がどんなにひどいことをしたのかと思うことと、トーマが自分の気持ちを知っていて茶番劇に付き合ってくれたのだと思っているのかもしれないという混乱と後悔が、うつむきレドヴィのみる向こうの空に透けて見える。
何かを与えてもらうだけから、与えてもらった幸せを身にかみしめる立場になる。 自分自身のことから、他者があってこその愛なのだと悟る。 オスカーに振り向かれていなくも、誰にでも自分は振り向かれていたのを知る。
「ごめん」 の重さを吉田アンテから知る。 エーリクに行っているようでトーマへ。
学んでいかなくてはならない自分をかみしめて、ユーリを見守る最後の姿にアンテ自身の成長をみる。
そういうアンテが好きだと、あたしは今は思える。
とかって。 吉田アンテ、ステキだったよ、と一言ですむ話を、 結果に関する理論的な裏づけをしないと恥ずかしくなるヘルベルトタイプっす、あたし。
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