Rocking, Reading, Screaming Bunny
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Far more shocking than anything I ever knew. How about you?


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*名前のイニシャル2文字=♂、1文字=♀。
*(vo)=ボーカル、(g)=ギター、(b)=ベース、(drs)=ドラム、(key)=キーボード。
*この日記は嘘は書きませんが、書けないことは山ほどあります。
*文中の英文和訳=全てScreaming Bunny訳。(日記タイトルは日記内容に合わせて訳しています)

*皆さま、ワタクシはScreaming Bunnyを廃業します。
 9年続いたサイトの母体は消しました。この日記はサーバーと永久契約しているので残しますが、読むに足らない内容はいくらか削除しました。


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2008年07月14日(月)  Our lives are merely trees of possibilities

6/25にライアル・ワトソンが死去していたのを今頃知った。まだ69歳だったそうだ。
記録によると、最初に彼の著書を読了したのは1998年。しかし本を購入したのは1996年。新宿小田急デパートのイングリッシュ・カフェに一人で入る時、読み物が欲しくて直前にデパート内の本屋で買った。「ロミオ・エラー」というきれいなタイトルにひかれ、科学エッセイということしかわからず買ったのだが。カフェで読み始めてみて血の気が引いた。「ロミオ・エラー」とは、ジュリエットが薬で仮死状態になっているロミオを死んだと思い込んだことからくる―――つまり、誤って死亡判定されて埋葬されたりすることをいうのだ。
1995年に初めて閉所恐怖症からパニックを起こした私にとって、「棺の中で目覚める」という以上の悪夢はない。その時吐気に近い拒否感をおぼえ、数ページと読めなかった。
が、私はその本を捨てることはなかった。ほんの少しだけ読んだその文章が魅力的だったのだ。ようやく2年後にもう一度読み、今度は読み通せた。
「外から見えるところに生きた細胞はひとつもない」、「体表ではちょっとした接触やかすかなそよ風でもそれなりの犠牲が出るが、体内の状況はそれに劣らず厳しい。口腔の表層は毎日そっくり洗い流されて胃で消化されてしまうし、腸壁からは700億個の細胞が通過する食物によって剥ぎとられていく」といった容赦ない状況を、夢見るように語っていた。非常に文学的だった。例えば後者の文章はこう続く。「そのうえにわたしたちの愛や、憎しみや、怒り、心痛などが身体を日々消耗させ、残りの犠牲分をさまざまな化学的災厄に逢わせて破壊していく」 ―――肉体の生と死を単純化し、死の恐怖から私を救う文章だった。
澁澤龍彦は幻想とエロスを科学文献のように書いたが、反対にライアル・ワトソンは科学を幻想小説のように書いた。

2000年にバリ島に旅行した時、コモドオオトカゲを見に行った。ワニと同じで死んだように動かないその生き物を見てしみじみと感動したのは、ライアル・ワトソンを読んでいたからだ。こいつは機会さえ与えられれば、人間を襲って食うんだ。ワトソンが書いていたように、「少なくともいにしえの神話が死語とならぬ程度に、襲撃を繰り返している」んだ。だからこの生き物の名前は私にとっては今も、ワトソンが書いていた「コモド・ドラゴン」である。

「ロミオ・エラー」に、動物学者クレイボーン・ジョーンズの引用で、「ミツバチ」というのものは一個の生物とは言えず、まったく人為的な概念にすぎないという箇所がある。一個の生物として存在しているのは「ミツバチの巣」だ、と。
そしてワトソンの「アースワークス」で私はこの文章に出会う。「頭や尻尾はおろか、手足も口も体腔もないのに、ほぼ世界中の海で繁殖している生き物がある。クラゲの一種で、見た目には明確なひとつの固体をなしていながら、実は非常に単純な動物の成体や幼体が寄り集まって、複雑な全体を構成しているコロニーだ。(中略)この奇妙な生物の寄せ集めが、どんなふうにしてかわからないが、協力しあいながら生きているのである。全体に通ずる神経系がないにもかかわらず、この寄せ集め世帯の中を電気的信号が行き交い、規則的で見るからに調和のとれた、驚くほどまとまりのある行動をとる。つまり、ひとつの社会として行動する」
そしてワトソンは言う。これは交響楽団だと。「浮きを帆のようにふくらませたこのゲル状の塊りは、こうしてカツオノエボシとなり、世界のあらゆる熱帯の海を自在に行き交っている」
―――私はすっかりこの記述に魅せられた。
2005年にR.E.M.の'Be Mine'を聴いていたら、このイメージがよみがえり、詩を書いた。本と音楽と自分自身の願いが合わさったものを書けて満足だ。

Our lives are merely trees of possibilities (我々の人生は可能性を秘めた樹木に過ぎない)  *Dragon's Ear / Tyrannosaurus Rex (1970) の歌詞。



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