夏の合宿というのはいい。 朝から晩までテニスばかり。教科書なんかはどこもひらかなくてすむ。 別に勉強が不得手なわけでは全くないが、真夏日の続く中、ほんの数日くらいは記憶もなくなるくらいに疲れ果てるのも気持ちがいい。 テニスを始めてから、そう思うようになった。
3日間の合宿に入る前日。 かわいい妹が『はい、これ使って』といって、みたことのない透明なプラシチックケースを差し出してきた。 丸いコンパクトケースのようなものだ。中には赤ちゃんに使うようなふわふわのパフが備え付けられている。そのカバーには金色の文字で『ベビーパウダー』とプリントされていた。 話を聞けばサッカーやってる妹のお友達が背中に皮膚病ができたらしい。 理由きいたら、毎日、部活で汗をかいてたらユニフォームと皮膚の間に黴ができたという…。 ちゃんと毎日洗濯して着替えてたんだよ! と妹が切実に訴える。 確かに汗なんて渇く間もなく次から次へと流れるものだけど…。この暑させいだろうか、そんなことがあるなんて聞いたこともなかった。
『だから練習前にこれを使って。ね』
だから練習開始前。 約束の通り、鞄からケースを取り出す。そして真っ白なパフを手に胸元、腕、襟足、背中と少しずつ叩きまぶしていった。 部室内に記憶には馴染みない、だが懐かしい香りが漂ってまだ数人残っているメンバーの注目をあびる。
「なんやそれ」
当たり前に隣で着替え始めていた仁王くんの不思議な顔がロッカーミラーに映し出されていた。
「ベビーパウダーだそうです。妹が絶対使ってくれっていいまして」 「ふうん〜」
いかに切実に妹に訴えられたかを伝えると、彼はへえええ〜と唸りながら、何度もその白く透明なケースを掌の中でくるくると転がした。
「皮膚がカビるなんてこと、あるんか」 「肌が白く斑点になるそうです」
そのまま彼はぱかっと蓋を開けると酷く小さくみえるパフを指で摘んだ。
「後ろ無理だろ?しちゃる。後ろ向きぃ」
そういって肩を掴んで体を入れ替える、ぺろっとユニフォームの襟を掴んだ。首筋の髪を掌でよけてくれ、ほふほふと柔らかく叩かれる。 白く、甘い香りが後ろから漂ってくる。
「うーん少し髪に残ってしまうのぅ」
そういうと、彼は予告もなく、ふうっと首筋に息を吹き掛けてきた。 より強い吐息で散らされた白い粉が目の前に、はらはらと舞い落ちる。 それはある意味、特別な熱が伝わるよりも遠まわしな感触を感じる。
「…仁王くん」
勘違いか?なんて、失礼なことはいいません。 だから声は小さめに。
「そういう確信的なことはよしなさい。対応に困ります」
けけけけ、と笑って彼はぽんと白い粉がパウダーを返してきた。
「いい香り。懐かしいな。色々と思い出すの」
そんな言葉には騙されません。 特に感慨なんてない彼に、ただのひとつの口実を与えたに過ぎないだろう。 そう思って知らないふりをしていれば、やっと誰もがいなくなった室内で、 慣れたやわらかい唇がそっと耳たぶを撫でる。
「まだついとる」
その感覚をやり過ごし、僕は指ですっと、その下唇ぬぐってやる。
「ついてますよ」
少し目を丸くした彼を置いて、白く濡れた指先のまま、ラケットを持つと 部室を後にする。
天花粉。
さあ、すべて忘れて。 はじめようか。
記憶がなくなるくらいの、暑い夏を…。
これからはじめましょう。
さあ。
|