月に一度、母親の経管栄養と薬をとりに、車で40分ほどの町にある病院(母親が入院していたところ)へ行く。 わたし自身の子どもとの関係を考えてもそうなのだが、「親子」という関係は厄介なもので、ちょっと気をゆるすと「ぐずぐず」のなしくずしになりがち。お互いに展望のない「どつぼ」にはまる可能性が、つねに潜んでいる。 そんな「やばさ」を感じたときには、「病棟」にお邪魔して、廊下の椅子に座って、そこの雰囲気を吸収してくる。尊敬する「看護士」さんは、眼が合うと、何も言わずにとなりに座って、深い呼吸であれこれの話につきあってくれる。 「そうなのよね。わたしたちは仕事だから、それできちんと付き合い方が決められるけど、肉親はそうはいかないものね。」 ごく当たり前の会話だが、わたしはその「場」にある、患者とそれを取り巻く仕事師たちの関係が好きだ。その雰囲気は、病棟ごと・診療科ごとにばらつきはあるものの、長い時間をかけてはぐくまれ、しかも、いつでも開放可能な「柔軟さ」を備えている。プロとはそういうものだろう、と思う。 しばらく話をしているうちに、呼吸が丹田におりていくのが分かる。 「手厚い看護をしてるって、聞いてるわよお。」 それはちがう。 わたしが、母親の入院中、水族館の芝居と「蒲田のひと」とのあいびきで欠席した以外、毎日病院に通ったのは、あなたたちの雰囲気を味わいに行ったようなもので、生き物としての生存に必要な手当をするというだけの場合にも、じゅうぶん豊かな関係をもつことができるのだ、という事実にしびれたからだ。
だから、居宅介護の場合でも、個体の生存に関わる部分は、あたりまえのこととして、なんとしても確保しておきたい。しかも、苦しさや辛さのない関係の中でね。 社会的生存に関わる部分に関しては、本人と、わたしを含めた周囲との協働の問題だ。ただ生きていたって、生きてるとは言えない。自分の外に向かって、望むことをあきらめず、それに無条件に応答するわたしたちが、どれだけ 拡がりをもった構えをとれるか、ということだ。
|