昨日かいた介護サービスの「O嬢」。 失敗できない窮屈な「ケア・マネ」に、彼女の対応は素晴らしい、と言ったら、「みんな一生懸命なんですけどね・・・」とかえってくる。ちがうんだよね。いくら頭で解っていても、本人を目の前にしたときにどういう感じでつき合えるか、というのは、ほとんどセンスの問題で、いくら一生懸命になっても、むしろ一生懸命になるからこそ難しくなってしまう。これは、介護者の認識レベルの問題ではない。
植木の仕事をしていても、「筋がいい」若者は、なんにも言わなくても木に寄り添うあり方をしている。この枝がこうだから、なんていう説明を一生懸命聞いてくるやつは、だいたい途中で職をかえる。早くほめられようとして「一生懸命」なだけだからだ。しかし、プロの世界はうまくいって当たり前、だあれもほめてなんかくれない。ざまあみろ。
ここで、つねづね問題となっている「理解と自由」の問題。 理解されたって「自由」は遠い。理解というのは、「する側」と「される側」が、割と画然と存在することを前提に成立する。非常に理不尽な関係が「前提」されるわけです。なんでわたしが「される側」なわけ?とかね。 「理解」されて楽になるのは、本人ではなく、保護者とか家族とか、本人を代理できないくせにそれができると思っている馬鹿者だけなのです。 そんなわけで、わたしは「差別」に対して「理解」を目標設定する感覚を、根っこから疑う癖があるという自己紹介でした。
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