草原の満ち潮、豊穣の荒野
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38 地上にて GREENFIELDS〜道連れ

「おい、そこのあんた、こいつを持って行かんかね」


夕刻近い市場、中央通りからやや外れた片隅。
小太りの鼻ヒゲ商人が手招いた。

「あんただよ、あんた!
そこのフード被ったダンナ!」


通り過ぎかけた人影を飛びつくように掴み止める。

「なあ、あんた、どっか遠くから来たんだろ?
そんな氷の中みたいな格好でさ...」

彼はつかまえた相手の顔を覗き込み
勢い良くフードをひっぺがした。
旅人や旅人相手の商人達が集まる街道沿い。
人の流れがいっせいに立ち止まる。


「うっぷ...」


男が呻いた。

乾燥しかけた海藻のように
べたついた髪が覆った、小汚い事この上ない顔。
伸ばし放題の絡まった髪と
その隙間から覗く眼は同じ色。
ブルー。


「何日風呂、入ってない?」

ベタついた髪に触わった手を
尻で拭きながらヒゲ男が尋ねた。
だが、小汚い男は横目で睨み
フードを被り直しただけだった。
再び流れ始める人の波。


「...顔は若いな」

ヒゲ男は相手の顎をひょいと掴むと
己の顔を近付けて言った。

「いいかね、ボーイ。男はな、中身も大事だが
身だしなみもおろそかにしてはいかん。
運のいい事に今ちょうど
ここに石鹸と剃刀がある」

「放せ」

「ブラシもある」

「いいからその手を放せヒゲ親父」

ヒゲ男は眼を剥いて叫んだ。


「えらい訛りだ!やっぱり遠くから来たんだな。
遠方の旅人には親切にしてやらにゃいかん。
運のいい事に今ちょうど
ここに干し肉がある」

「...」


若い男は黙ってヒゲ男を真正面から睨みつけた。


「ひでえ顔してるなあ」

「てめえもだろ」

「うわはははは!いや、ツラの事じゃない。
その顔の傷だよ」

ヒゲ男が子供でもあしらうように肩を揺すって笑う。
若い男はいっそう不機嫌な顔になると
ヒゲ男の手を掴み放って歩き出した。

「あ、おい、待てよ!
人の話は聞けって。オレは薬だって運のいい事に....」

周囲をグルグル回りながら
ヒゲ男がまくしたてる。


「本当だって!いい薬があるんだ。
安くしとくからちょっとそこで待っててくれ」


ヒゲ男が自分の店に飛び込んだ隙に
若い男はさっさと歩き出した。


「おーい!こら!待てって言ってるだろ!
生きのいい生薬があるんだって!
あんたの顔、そのままだと菌にやられて
肉が腐って落ちて骨がはみ出すぞ。
そこのフード被った青い頭の兄ちゃん!
お前だお前ーッ!!」


大声で叫ぶヒゲ男。
面白半分のヤジ馬が大勢集まって来る。
若い男は舌打ちして振り返ると目を剥いた。

ヒゲ男がにこにこしながら白い鳥の雛らしきものを
ぶら下げている。
片手に握られているのは大きなナタ。
人の頭程の雛が悲鳴を上げた。


「こいつの血は精力がつくんだ。
おい、見てるあんたらもどうだね、これ一匹で
5人前は出せるぞ」

「俺もくれ」

「こっちもだ!」


次々に声が飛ぶ。ヒゲ男は満面の笑顔で雛を押さえ付け
ナタを振り上げた。




「....何だね?」

「...」


ナタを握った腕は若い男の手で
空中に止められている。
ヒゲ男はにやりと笑った。


「お買い上げありがとうござい」

「いや、そうじゃなくって...」

「ならブッた切って皆に売るから手を離せ」

「.....銅貨5枚」

「おう、子供の使いならとっとと帰れ」

「銀貨1枚」

「金貨10枚」

「....運がなかったな」



若い男は手を離して歩き出した。

「おい、待てよ、じゃあ何か代わりになる物で
手を打とうじゃないか、兄弟」

「誰が兄弟だ」

「一度取り引きすりゃ兄弟だ。それより遠くから来たんなら
なんか珍しいモンでも持ってないか?」


ヤジ馬のひとりががなった。


「おい!ヒゲオヤジ、精力剤はどうした!」

「ああ、今売れた」

「化膿止めって言わなかったか?」

「細かい事を気にするもんじゃない。若いの」


「おっさん、これで勘弁しろ」


丈夫そうな革袋から彼は一粒の真珠を取り出して見せた。
小粒だが白というよりは青みがかった黒に近い。


「ずいぶん小さいモンを...真珠か」

「相場は調べてある。悪い取り引きじゃないはずだ」

「.........」


ヒゲ男は真珠と青い男の爪先から頭の先まで見回した。

「海辺の街から来たのか」

「まあ、そんなところだ。文句がなきゃ
こいつは持って行くぞ」


足を縛られた雛鳥をぞんざいに掴んで彼は歩き出した。

「あ、ちょっと待て!」

「まだ何かあるのか」

追い掛けて来たヒゲ男は彼の耳もとで
素早く囁いた。

「いや、兄弟。オレの名前はアルファルド。
良かったら他のモンも売らんか?」

「無い」

「じゃあ、あったらオレのとこに来いよ。
海辺からの物はいい商売になる。
お前さえその気ならルートだって用意できるぜ」

「気が向いたらな」

気のない声を返して彼は背を向けた。

「金はあった方がいいぞ。
兄貴のオレが力になってやるから
いつでも来てくれ」

ヒゲ男はポケットから小さな書き付けを取り出して
彼に押し付けると真顔でもう一度囁いた。


「弟だから忠告しとくが、そいつはさっさと喰うなり
バラして売った方がいいぞ」

「猛禽の子か」

「知らんのか?お前」

「お前呼ばわりされる筋合いはない」

「名前を知らんだろ」

「....」

「名前くらい教えろよ。教えたくなきゃ勝手に呼ぶがな。
ヤセ、とか青いのとか」

「...ブルーだ」

「まんまじゃねえかよ」

「ほっといてくれ」


ブルーは雛鳥をブラ下げて覗き込んだ。
産毛に覆われた純白の塊。
大型の鳥の雛のようだ。


「そいつのエサ知ってるか?」

「獣の肉か何かだろ。嘴が曲がってるからな。
肉を喰う種類に見える」

「お前、バカなのか頭がいいのかわからん奴だな」

「どういう事だヒゲダルマ」

「...アルファルドだ、ブルー」


ヒゲ男は図星の体型を口に出され
不機嫌に言った。


「そいつは魔鳥の幼生なんだよ。青二才。
生きたままの取り引きは禁じられている」

「アルファルド、あんた、やってたじゃないか」


「いいか、ブルー。オレは言ったよな。

『ルートなら作ってやる』って。

海辺の品は少ないから貴重さね。
つまり偽物作ってさばく手もあるわけだ。
乗れよ。いい目見させてやっからよ」


青い男は口元だけの笑いで返す。
代償なしで物事が動かない事を彼はよく知っていた。

「ふん、いいのかい。さっき会ったばかりの相手だぜ」

「そん時は魔鳥の事をチクるだけだ。多少演出付きで、な」

「....」

「第一こんなモン買う奴はまともじゃない。
そもそもそんな顔の傷、カタギとは言わせんがね」

「....わかったよ。
何かあったらあんたを訪ねるさ。だから面倒な事には
巻き込まないでくれ」

「お互い様さ。とにかくそいつは晩飯にでもしちまうこった。
今ならすぐ死ぬ。育てる奴は魔獣使いか
外道の魔道師くらいだ。運良く会えれば金にゃなるが
大抵はその前にテメエがそいつの腹に入る事になる」

「....とんでもないモン押し付けやがって」

「喰えば問題ないって。まずいけどな」



ヒゲの男、アルファルドはブルーの背中を
ぽん、と叩いて笑った。

「また、どっかで会おうぜ」









夜。



あたりはすでに人影もなく
宿も見当たらない。
彼は立ち止まると街道を逸れ
手頃な木を探し歩いた。

やがてひとつ人ひとり腰掛けてやや
ゆとりがある枝振りの古木を選んで登る。
何度か滑り落ちてはどうにか一夜の宿を
確保した。

手を差し伸ばして風を聞く。


「狼か」


遥か遠くから伝わる遠吠えの振動。
海のそれより遅く、弱い。

雛が小さく鳴いた。


「どうしたもんかな...」

魔鳥の幼生は彼の懐に潜り込んでうとうとしていた。
時折、ピルルと親に甘えるような声で鳴きながら。


「くそ...」


陽に焼けた肌が腫れ上がってひりつく。
ヒゲ男が言ったように顔の傷も火傷が加わって
ひどい有り様。見られた顔ではない。


夜歩けば問題ないのだ。
地上とて人のいない時刻にうろつけば
海とさほど変わらない。
野獣や盗賊の餌食になって野垂れ死ぬ事さえ
『かまわなければ』快適な夜の旅路。

行くあてもない。
ただこの忌々しい太陽に焼かれて倒れた場所が
終着点である事だけはわかっている。
それまでは毎日だって太陽に中指を突き出して
歩いてやる。



「...次の街に水場があればいいが...」


見渡す限り平野、海は既に遠く潮風すらない。
地上の川や泉は海と異質な世界。
焼かれる体を冷ます
ひとときのオアシスではあったけれど。





朝。




「あばよ。好きなとこに行きな。
人間のいないとこを勧めるけどな」



ブルーは樹に雛を置いたまま、朝の街道を歩き始めた。
火傷はいくらか引いていた。彼の青白い顔に地上人と
似た赤味を差して見える程度に。
彼はそうやって毎日歩いていた。



街道。

朝日の中、馬車馬のトロットが響き
砂埃を撒き上げながら何度も通り過ぎて行く。
大きな都市が近付いて来た証だ。
旅人の数も段違いに増してゆく賑やかな街道。
彼は何度も並木の蔭で休みながら歩いた。

足が痛む。
よく晴れた空。
鳥の声が響く。


「..え?」


並木の木陰で彼は飛び起きた。
聞き覚えのある声が確かに聞こえた。
彼は音を『感じる』事が出来る。
一瞬でその声の主と居場所を突き止めた。


「お前、どこに潜り込んでる」


彼は己の革袋を覗いて溜め息をついた。
何度か休んでいるうちにこいつは
追い付いて潜り込んだのだろう。



「勘弁してくれ....」


雛が懐に潜り込んで顔を出した。
黒くつぶらな瞳。
見た目はただの白い幼鳥だ。
己の所定の位置、と決めたそこで
そいつは甘えた声を上げた。

街道は人通りが絶えない。こんなものを見られれば
どんな面倒に巻き込まれるかわかったものではない。
彼は後ろを向いてみた。
街道から逸れた平原のむこうは荒野。
何処か遠くへ置いて来なければ。
食料なら干した魚介でしのいできた。肉にはまだ馴染めない。

「くそっ...」

街道の先に目を戻す。この先には大きな都市があると聞いた。
腕と顔の火傷の痛みが収まってはぶり返す。
荒野まで引き返すのはきつい。


「魔獣使いくらいいる事を願うか...。
いざとなったら死体にしちまえばいい」


彼は溜め息をついて懐の上に用心深くコートを重ね合わせた。
季節は地上で言う春。
まだ花には早いが、そろそろコートを脱いで人々は歩いている。
そんな中、彼の姿はまるで極寒の果て。
旅の革袋やブーツも海獣の皮で何層にも縫い、仕立てられた物。
コートはごく普通の地上の物だったが
彼はそれを3重に重ねていた。


賑やかな街道を歩いて行く。
あと少し歩けば都市に入る。水路はあるだろうか。
大きな街ならば運河があるとも聞いた。
水辺に沿って歩くだけでも気が軽くなる。
ただし海路だけはごめんだ。

子供の笑い声、様々な匂い、音楽が流れ込んでくる。
街はもうすぐ傍。
異質な彼ですら、大きな街へ流れて行く人の波に
すっかり溶け込んでいる。
多少遠い場所からやってきたただの旅人。
誰の目にもそう見え、特に気にする者もない。
彼にとってもそこはまだ海よりマシだった。
例え、彼が穏やかな日射しに焼かれて歩いていたとしても。









「さあ、街だ。頼むからおとなしくしててくれ。
うまく行けば引き取り手が見つかるだろうよ」


巨大な商業都市。
深海の都市とは全く違った賑わい。
人の建造物の向こうにはいくつかの丘や森が見える。

「すみません、この街に水路は?」

無作為に住人を選んで彼は尋ねた。
顔は見えないように俯き、言葉は注意深く丁寧なものを
口にした。


「旅の方かね。商業都市ヒダルゴへようこそ」

親切そうな老紳士がにこやかに答えた。

「ええ。あの、すみませんがこの街に運河か
水路のようなものは...」

「運河だって?とんでもない。皆陸路で入って来る。
ここでの一番の売り物は馬だよ。
丈夫でいい足を持った馬を求めて昔から
いろんな旅商人が集まって来る歴史を持つ街だ。
なんなら一頭探したらどうだね。
ここならどこへ行っても損をする馬なんかいない」


老紳士は誇らし気に辺りに繋がれた馬を指差した。


「動物商が多いので?どうも馬は苦手なもので...」

「ん?探せばまあ、駱駝や驢馬もいるだろうが
足の手段なら馬に慣れた方が早いよ。
ここの馬は世界一だ。乗馬の訓練場だってある。
いい機会だから挑戦してみてはいかがかね。
なんならどこか紹介しよう」

「ああ、いえ、出来れば珍しい動物を扱う方を。
私は旅商人で珍しいものを探しているのです」

「ここは名馬の『名産地』だ」

「...申し訳ない。慣れないもので失礼を...」


老紳士は不愉快そうに立ち去って行った。
他にも数人当たってみたがかんばしくない。
尤も見ず知らずの人間にあっさり探せるくらいなら
禁制でもなんでもないが。


「やっぱり駄目か。簡単に見つかるくらいなら
あのヒゲダルマがとっくにそうしてただろうな...」


途方に暮れて街の大通りから森の方へ歩いてみる。
運河はなくとも沼や泉、湖があれば...

陽も暮れて旅人達は宿へ戻って行く。
彼だけが反対に人気のない方角へ歩いていた。

「騒ぐなよ」

懐で幼生がもぞもぞと動いている。
そろそろ水なり餌なり与えなければならない頃だ。

生かしておくならば。


「大丈夫ですか?」

人目を案じて腹部を押さえ、俯きがちに歩いたのが裏目に出た。
年輩の女性の心配げな声。


「ああ、ご心配なく。持病持ちなもので」

「医者か薬は必要?」

「いや、それには及びません。私は旅の薬売りで...」


顔を上げた彼を見た彼女は、作り笑いで素早く歩き去った。
厄介な病気持ちの浮浪者にでも見えたのだろう。
彼は苦笑い半分で風の匂いを嗅いだ。
水の匂いが微かにする。
泉くらいなら何処の街にもある筈だ。

見つけさえすれば、深夜にでもこっそり入れる。
街なかにも噴水や池があったが昼間から入れば
いい見せ物間違い無しだ。
出来れば人気のない水場がいい。

森の奥へ灯も持たず歩いて行く。



「少し休もうか。お前も魚で手を打たないか?」



人気の無い静かな森の奥。
彼は座り込んでフードを脱いだ。
幼生がコートの間から顔を出した。

「水だ。生きてたきゃこいつでがまん...」

つんざくような声が響き渡った。小さな幼生は
信じがたい大声を上げ、辺り一帯の木々を震わせた。
空腹。
本能のままに魔物の子は鳴き喚き始めた。


「待て、こら!静かにしろ!」

あわてて幼生の口に適当な干物を突っ込むが
拒絶して吐き出し、鳴き声は更にひどくなった。

アルファルドの嫌な忠告が脳裏を過る。
獣肉でも買っておけば良かった。
今の声で森の動物も逃げただろう。
いや、動物ならいいが、もし誰かにこの途方も無い
喚き声を聞かれたら....


「死にたくなきゃ黙ってろ!オレは鳥肉なんか
欲しくないんだよ」

必死に嘴を合わせて紐で縛る。
息は鼻の穴から風が出ているから大丈夫だろう。
彼はひりつく顔や腕に耐えながら嘴の隙間に水を
流し込んだ。地上の生き物なら水も必要な筈だ。
勿論己にも。


「!!」


彼は背後に異様な感触を感じて振り向いた。

人影?

いや、足音はおろか何かが近付く気配もなかった。
何もないが今、間違いなく
『そこ』だけさっきと空気の流れが違う。

ブルーの聴覚は並の地上人より鋭い。
耳以外にも皮膚から聞き取る事が出来る。
火傷で鈍っていても獣が近付く事くらい察知できた筈だ。

深夜、暗い森の奥。
地上はまだ未知の世界。
魔物でも呼び寄せたか、と彼は体を硬直させていた。