草原の満ち潮、豊穣の荒野
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37 母と娘と兄〜遠くへ

「騙したのね!」

人影の消えた街外れで娘が叫んだ。


「親子揃って面白いくらいに引っ掛かりやがる。
どいつもこいつも」

片腕の男が笑いながらもうひとりの女を引きずり出した。
娘より年輩の人魚。
心そこに非ず、の佇まい。


「母様...」

人魚の娘は母を見て顔を伏せた。

「行方知れずの母親に会えたってのに薄情な娘だ。
お上品な連中には気狂いは死んでくれたほうがマシなんだろうよ。
ま、約束は守ったぜ。その後の事は知らんがね」


手際良く、数人の男達が交渉を始めていた。
年輩の放心した人魚より若い娘を取り合った激しいやり取り。





「兄貴にも会わせてやっただろ。
奴さんもさぞかし喜んだ事だろうよ」

「冗談を言わないで!私達が何をしたって言うの」


ジャックは左腕で娘の頭を掴むと
無い右腕に押し付けた。


「こいつはお前の兄貴に喰われちまったのさ。
あっはっは、ほら、からっぽだろう?え。
あいつはとんでもねえ化け物なんだよ。
なあ、かわいいお嬢さん」


男はジョークのようにげらげら笑いながら
その時の地獄図を語って聞かせた。
母親の引きつった顔が唇だけを震わせている。
娘は男の片腕から顔を反らし叫んだ。


「そんな人兄なんかじゃない!!」

「母親が母親なら娘も娘だぜ。全くよ。
あのクソガキがやった事は身内に責任を取ってもらう。
右腕がねえ、ってのは不自由で仕方ねえ。
あんた達もそんくらいはわかるだろ?
なんならひとつもいでやろうか」

言葉尻の殺気。
娘が悲鳴を上げて後ずさる。



「値が落ちるような事はやめてくれ」

男達のひとりが割って入り、ジャックは
冗談だとせせら笑った。


「あのクソガキが母親に会いたい、って言うから
オレは親切にお膳立てしてやってコレだ。
人の好意をなんだと思ってやがるのかね。
なあ、そうだろ?奥さん」


人魚の母親は顔を覆って泣き伏した。
嗚咽と繰り返される後悔の言葉。


「母様....」


「あの化け物はな、人喰いだ。オレはひとり喰われるのを
この目で見たんだよ。
お嬢さん、あんたも人を喰うのかね?」


娘は答える代わりに男の顔に唾を吐いた。


「このクソ人魚共が!」

娘は平手打を喰らって母親の傍に倒れた。





「おい!続きは街に戻ってからにしろ。
長居は無用だ。こんなとこでのんびりしてると
足が付く。とっとと....」


ジャックが目を見開いた。


「....」



そこにいた数人の男達も全員
上空を見上げて顔色を変えた。
潮流の温度がすっと下がり背筋にただ事ではない
気配を伝える。
人魚の母子も同じように呆然とそれを見ていた。


黄昏れ。

夜よりも暗いそれはあっと言う間に
それ以上の漆黒と化した。
街の灯すら同時に消え失せていた。


「な...なんだ!」

「灯が...」


彼等は皆いっせいに
海の塔を探したが足下すら見えなかった。


「ありゃなんだ!」


突然押し寄せた寒さに身を縮めてひとりの男が叫んだ。

一本の光。
青くまっすぐに上空へ伸びたそれ。





「母様!」




一瞬見えた姿を頼りに娘は母の手を引いて
『走り出した』
彼女は美しい色彩の衣装をかなぐり捨て
長く豊かな尾と鰭を全開に開いて『走った』


「逃げたぞ!追え!!」


ジャックが叫んだ。
だが一筋の青さえすぐに消え失せ、辺りは完全な闇に包まれた。

「は...破滅だ...」

「バカな事を言うな」

「あの灯が消えたらオレ達の街なんか!」

ひとりの男が悲痛な声で叫ぶ。



僅かに届く光で永らえているスラム。氷の街。
待っている女達。
ひとり紛れていた少年は泣き出しそうなのを
堪えて立っていた。
人魚などジャック以外、誰も頭にすらない。
母と娘は手探りで少しでも遠くへと逃げた。
何処へ向かっているかは全くわからぬまま。



やがて。


再び光が海を照らし出した時
男達は人魚を見つける事はできなかった。
彼等は再来した光に照らし出された荒野が
別世界である事に息を呑み
しばらく動く事すらできなかった。
少年だけがまっさきに駆け出し、暖かい潮流に
汚い外套を脱ぎ捨て歓声を上げた。
やがて男達も帰路へ急ぐよう歩き始めた。
ジャックも呆然としながらそれを追うしかなかった。



無人になった街外れ。
かつての寂し気な荒野への入り口は
明るく照らされ、戸惑った生き物達がそれぞれ
心地よい場所を探して移動して行く。
寒さを耐えてきたものは明るく暖かい場所へ
冷たさと暗闇に惹かれて来たものは強い光から
逃れられる場所へと。



穏やかな潮流が街の賑わいを運んで流れて行く。
少年が脱ぎ捨てた汚い外套はそれを見ていた。
その外套は何度も丁寧に補修された跡があったが
旅人すらそれを拾う者はなく、何処かへ流れて行った。

その外套を始めに着ていた者のようにその行方は
誰にもわからない。















「青い髪のね...強くてとても優しい人だった...」



人魚の母は荒野を彷徨いながら生涯、それ以外の言葉を
口にする事はなかった。
娘は狂った母親をいたわりながら
街や特権階級の庇護を失ったまま旅をした。

戻る道も見失い、追う者を恐れひっそりと
流浪の運命を歩く事になった。
道中荒野にて、不思議な老人に出会う事になったが
兄はそれを知る由もなく
彼もまた、地上の荒野を流れ歩いて行く事となる。



遥か彼方へ。
繰り返される旅路。旅人もその果てもそれぞれに
生きとし往ける者は歩き続けて止まる事は無い。
寄せ返す海の波のように、
吹き渡る地上の風のように

遠く遠くへ。

小さな青い少年がかつて願ったように。





草原の満ち潮、豊穣の荒野 〜深海編 終了