草原の満ち潮、豊穣の荒野
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36 決別(3)〜サクリファイス

夜。

塔に夜の光が灯される。
青い焔が激しく燃え上がった。
絶やされる事のない深海の焔。

広場中央には3人の罪人。
開かれようとしている地上への道。
二重三重と複雑な紋様を描き刻まれた
四方に立つ司祭の詠唱が響く。

集まっていた人々は神殿から全て出された。
数名の司祭と上位の者達だけが
遥か上空で渦を巻き始めた海流を見ていた。




地上へ。
オンディーンは仰向けのまま上空を睨んでいる。
かつて一度彼は行った事があった。

酔っ払いの老人の法螺話を真に受け
季節ごとに現れる僅かな道を見つけ、夜の海上へ出た。
彼は幸運だった。道を踏み外せば死。
昼の太陽を見ていればその眼を潰していただろう。


加えて今開かれようとしているものは人の手による
強引で不安定な道。
罪人の安全など考慮されるはずもない。
熱と氷の潮流を抜け、更に生きる為に調整された
全ての恩恵を剥ぎ取られるのだ。

『自由』の代償。


「運が良ければ地上へ辿り着く前に潰されるだろう」


ガレイオスが結界を挟んで立っている。
オンディーンだけを睨んで彼は言った。


「犠牲だと?笑わせるな。
この海で従わぬ者は悪だ。それが嫌なら
さっさと夢でもなんでも追って去るがいい。
貴様の後に同じような輩が現れば
何人でも送り届けてやろう。

地上で仲間と暮らすがいい。
生きていられたなら、の話だがな」



「.......」



オンディーンは空を睨んだまま兄弟子を
見ようともしない。






「下がれ!結界の傍は術者以外立つな!
巻き込まれて肉片にされたくなかったらな」


ガレイオスの声と同時に広場は紋様から浮き上がった
光で包まれた。



「仕上げだ」


ガレイオスが最後の呪言を口にしかけた時。

背後を爆発音のような振動が走り抜けた。



「何事だ!!」


バランスが崩れるのを恐れた術者達は
詠唱を中断した。


「ほ、宝物殿が襲撃されました!」

「バカな事を抜かすな!!あれは何人たりとて....」


ガレイオスの鬣が逆立った。


報告に駆け付けた司祭がきれいにふっ飛んだ。
彼は広場の結界まで転るとその身を粉々に散らして消滅した。




「あなたともあろう方が血迷ったか!!」



ふっ飛んだ司祭の背後から現れた男。
この海で一番年老いた者。
片手に海の宝物をぞんざいに突っ込んだ袋を抱えて
彼は立っていた。


「土産を持って行け。このバカ弟子めが」



老人は広場へ歩き出した。


「何をしている!老師を止めろ!!僧兵!!」


数人の屈強な男達が老人を取り囲んだ。
心なしか遠慮がちに老人の行く手を塞ぐ。


「どうかお戻りを」

「お前達には止められぬよ。死にたくなかったら退け」

「.....」

兵達は困惑の表情で顔を見合わせた。
その手の長刀や槍は、動くか否か
迷いの位置にあった。

「何をしているのだ!!」


いっせいに兵が動いた。彼等の任務に従って。


「!」

老人が突っ込むように走り出した。
ひとり、ふたりと立ちはだかる兵士を片腕一本で
薙ぎ倒しながら。
倒れた者は全てその体を真二つに割られ
二度と起き上がらなかった。

数人が瞬殺されるのを
蒼白な顔で術者達は見ていた。

彼がやってくる。
白髪と髭を返り血に染めた悪鬼のような姿で。
普段の温和な顔は消え失せ、双眼には異様な光。
その指先を長く鋭い刃に変え
血を足下に滴らせた化け物が近付いてくる。


ガレイオスが呻いた。

「あなたは....」


「ガレイオス、真の大罪人というものを見せてやろう。
お前はわしに似ておるよ。同じになりたくなくば
黙って見ておれ」


老人は術者のひとりの頭を掴むと情け容赦なく
結界に叩き付けた。凄まじい悲鳴。
無惨な姿を見た残りの術者達は逃げ出した。
ガレイオスの傍をためらいもなく走り抜けて。


「魔獣はここにおるわ。
償いという名の元に殺戮を繰り返し
屍の上に未来を積んだ大罪人よ」


老人は複数に張られた結界に踏み込んでは
その足を粉々に砕きまた『再生』して進む。
囚人達は呆然としてそれを見ていた。
子供の笑い声が何処からか響き渡る。

傷付いた者が起き上がった。
瀕死の者は意識を取り戻し周辺を見回した。
死者だけは何も変化がなかった。



「じじい...」


オンディーンの折られたあちこちの骨や
損傷した内臓が修復されていく。
他の囚人は二人とも既に立ち上がっていた。


「持って行け」

老人はぞんざいに抱えていた袋を放った。

「どうせ使う事もないガラクタじゃ」

オンディーンは袋を覗いて絶句した。
一目で宝物と知れる輝きを放った透明な球体。
取り出して手に乗せたそれは中で青い光が揺れていた。


「老師!!」


ガレイオスが絶叫した。
あれは先程己が受け取った海の宝珠だ。
海の灯。
失えば海は生きるシステムを失う。



「あなたはこの海を絶やしてしまうつもりなのか!!」


老人はかまわずオンディーンを掴んで立たせた。

「取りあえず生きておけ。何処かで必ず帳尻は合うよ。
わしが出来るのはここまでじゃ」


オンディーンの手の上で青い火が燃え上がった。
同時に塔の灯が消えた。
突然の暗闇の中、オンディーンの手の中の焔だけが
まっすぐに遠く
どこまでも道のように暗闇を照らす。


「この世の終わりだ!」

「灯が...海の灯が消えた!!」


神殿と街中がパニックに陥った。
今まで絶える事の無かった灯。
『太陽』が消えた。

数世代に渡って彼等は灯のもとで生きて来た。
突然の事態に皆空を見上げ怯え
女神に祈った。



ガレイオスは牙を剥き出しながら広場へ走った。
己が誰よりも敬った存在が。
何故だ!!
この海を壊すというのか!


「ああ、これもついでに持って行け」


老人はあっさり刃と化した指先をへし折り取ると
その刃をオンディーンの腕に突き立てた。

「!」


刺さったはずのそれは瞬時に解けるように消え失せた。
痛みすらない。
弟子は老師匠の顔と己の腕を交互に見て
ただ唖然とするばかり。



「達者で暮らせ」


老人は笑って短い呪言を唱えた。


遠い昔の言葉はオンディーンにも聞き取れなかった。
あれだけ術者が準備をかけたものを彼はただ一言で
開いた。

暗闇に差された光を中心に
一本の道が空に向かって現れいずる。
それは海のどんな場所からもはっきりと見えていた。
人々は海の破滅の予兆だとひれ伏した。


「老師よ!」

「じじい!!」


ガレイオスとオンディーンの声が同時に重なった。


















暗闇。
そして沈黙。


ガレイオスは広場に踏み込みかけたまま目を閉じていた。
彼だけではない。
全ての者が恐ろしい暗闇の中息すら潜めた。







「さて、大罪人は行くかの」



老人は一気に老け込んで見える姿で歩き出した。
もぎ取った手を押さえふらつきながら。
広場にはオンディーンも囚人の姿もなかった。
光も完全に消え失せ深海は暗闇の中にあった。



「....なんという事だ...」



ガレイオスが眼を開いた。
去って行く老人の気配を暗闇で探りながら
半ば獣化した爪と牙を剥く。

「老師よ、ならばせめて
この手で始末を...」



咆哮と共に獅子は暗闇を疾走した。
弱々しく歩く老人を追って。




「あなたは乱心されたのだ!」


獅子が老人の背にその巨大な爪を振りかざした時。
彼の背後で歓声が沸きあがった。


「!?」



塔の頂上。
かすかな光の点滅。
僅かだがそれは重い暗闇を切り払い
人々に声をあげさせた。


「灯....が...」


ガレイオスが塔を振り返った瞬間
それは勢い良く燃え上がった。
かつてのどんな時よりも強く明るく。



「ひ...灯が....戻った!!」



海はその一瞬で光に満ちた。
青く明るい光の渦の中、ガレイオスは
眼をくらませながら老人に叫んだ。


「どういう事です!これは...」



彼はゆっくりと獅子を振り返るとにやりと笑った。


「言わんかったかの。
しょせん人の造った物にかける命なぞ」

「.....」

「伊達に長く生きたわけではない。
女神の慈悲にすがらずとも自力で歩く術くらいは
積み立てられたつもりじゃがの」


老人はおぼつかないながら
からりと笑って歩き出した。



「何処へ行かれるのです!」

「酒のある場所へじゃよ」


膝を落とした弟子に背を向けたまま
老人は手を振り門をくぐった。




都市の外は荒野。
それでもその先を照らす光は以前より強く
どこまでも伸びていた。




そしてその後、老人は二度と
都市に戻る事はなかった。