草原の満ち潮、豊穣の荒野
目次前ページ次ページ

19 過去〜思い出せない子守歌

荒れ果てた海の墓場。辺境。

沈んだ船の残骸。
篭に捕らえられた水死者の魂。
ごつごつした岩、死んだ妖魔の巨大な骨、まだ新しい骸。
はるか遠くまで、大量に転がっている。


彼は巨大な骨の上に立ち、己の領地を見下ろしていた。
冷たい海流の渦巻く音は、心踊る唄。
水妖に捕らえられた篭の魂の嘆きが混じる。


彼は高らかに笑う。青く長い鬣のような髪をなびかせて。
水妖共は、全て己の配下にある。
化け物じみた姿の水妖、妖魔を打ち倒し
勝利の雄叫びを轟かせる。
青い髪は色を変えながら広がり、唇からの咆哮と共に
力強い振動を呼び起こす。


その雄叫びに隠れていた水妖はひれ伏した。
岩や砂の中に隠れながら。
流れて来た、青い肌の男を領主として認めた。


その瞳は蒼く、荒々しい輝きと力強さをたたえている。
体にはまだ癒えぬ、無数の傷跡。
激しい闘いの名残り。
その固い指先には鋭い爪。まだ妖魔の肉片がこびりついたまま。




.....小さな咳が聞こえた。
男は視線をひとつの岩場に落とすと
骨の砦から飛び下りた。
歩きながら腕の肉片と血を拭う。
岩場の前まで来ると、彼は立ち止まり
青い髪をほんの少しだけ整えた。

腰に下げた皮袋から、赤い石を掴み出す。
熱そうに足元に放り投げられたそれは
水の中にも関わらず、焔をあげて燃え始めた。
妖魔の肉を切り取り串に刺し、焔にかざす。
もうひとつ皮袋を取り出すと、きれいな包みにくるまれた
肉片を同じように焔にかざした。


冷たい荒れ地に暖かい焔が燃え上がる。異様な姿をした水妖達も
ふう、と穏やかな動きでまどろみ始める。


彼は岩場に向かって、おいでおいで、と手を振った。
岩場からおずおずと顔を覗かせるひとりの娘。


「おいで、エナ」

娘は彼と同じ青の髪だったが、はるかに透明で鮮やかな蒼。
肌は透き通るような白磁。そしてその半身は魚のそれ。
人魚...海でそう呼ばれる存在。

青い男は獣人、そう呼ばれている。人魚に比べると
肌が青く、いつも鱗とツメのある固い二本足で歩き
毒牙を剥き出した荒々しい風貌をしていた。
獣と化せば巨大な海蛇のような姿で荒れ狂う事から
『海ヘビ』と呼ばれている種族。

獣人は蔑称でもあり、種の特定ができないものは
ひっくるめて「獣人」と呼ばれた。
人魚よりやや下の位置にあった種族は
『海人』と自らを呼び
時に獣人を奴隷として売り買いする者も多かった。




「私の名はエウジェニアです。いつになったら覚えて下さるの?」

「呼びにくい。舌を噛みそうだ」

肉にかぶりつきながら、舌を出して笑う青い男。
寒そうな人魚を己の傍に座らせる。
優美な仕種で座る人魚。暖かい、と男に微笑んでみせた。
青い男は、向けられた微笑みを嬉しそうに眺める。
荒々しい風貌の奥に、恥ずかしそうな表情を浮かべたまま。


「明日には家を作る。風邪をひかないように喰っておけ」

彼は水妖のではない、上質な肉片を人魚に差し出した。

「慣れないもの喰うと腹を壊す」

人魚は笑って、差し出された肉ではなく水妖の肉を取ると
ぱくり、とかぶりついて見せた。

「おい。そいつは固いだろう、エナ」

「エナじゃありませんてば」


海ヘビと人魚の笑い声が海の荒野に響く。
悲痛な唄を歌う篭の魂がしばし黙り込む。


ここは都から遠く離れた辺境の地。










〜青い赤ん坊のこと〜





中央都市から少し離れた小さな街。
うらぶれた路地裏を小走りに走って行く姿があった。

生まれたばかりの赤ん坊の泣き声。
青い髪をベールから零して走って行く女。
人魚、と呼ばれている種族。この街には珍しい姿。


深い紫のフード付き長衣で、真珠色の鱗の半身を隠し
建物に紛れて走って行く。
角をいくつも曲がり、手元の地図を確認しながら、何処かを
探し求めるように走り抜けて行った。


赤ん坊を抱いた人魚。
泣き止まぬ我が子を時折抱きしめなおしては、走った。


やがて街はずれの暗い建物に辿り着く。
入り口で一瞬足を止め、赤ん坊を見つめる女。
嗚咽がこぼれる。青い瞳、青い髪....自分と同じもの。
ただ。わずかばかり肌の色が青白い事と
生まれながらの小さな牙を除けば。



首をふると、階段を駆け上がって行く。
みしみしと古いそれは、嫌な音を立て、人魚を怯えさせた。

「こ...こんにちは.....」

奥に灯がもれる扉を見つけ、そっと開ける。

「...遅かったじゃないか。待ちくたびれたよ」


しわくちゃの老婆が安楽椅子に腰掛けていた。
キイキイとこれも耳障りな音を立てている。

人魚はベールもとらぬまま顔を背けると赤ん坊を差し出した。
老婆は床に引き摺った黒衣とあまりにも皺だらけの顔で
種族の見当もつかない。
魔女、と呼ばれてはいたが。神殿に属さず、魔法や
闇の 力を持つ、とされている人種。



「ふん...海ヘビかね。この子の父親は」


老婆が覗き込む。赤ん坊はじっとあたりを見つめて
おとなしくしていた。母親の胸で落ち着くように。



人魚は堪えきれず泣きだした。
海ヘビでさえなかったのだ、と叫ぶように話し始めた。
優しかった男は、心どころか姿さえ変わり果て
化け物と化したのだ、と。
見境なく殺戮を繰り返した果てに
自らの命すら断った恐ろしい妖魔だったと。

死ぬ思いで逃れて、ようやく街に辿り着き
やっとこの子が生まれたのに...
人魚は赤ん坊を抱いたまま座り込んで泣いた。



「妖魔にたぶらかされたって事かい、馬鹿な女だね」

「.........この子をお願いします」

「二度と.....まあ、会う気もないだろうねえ、これじゃ...」

「育てられる子じゃ....ないでしょう!」


ヒステリックに叫ぶ。
その目は赤く泣きはらし青い瞳なのか
赤いのか見当もつかなくなっていた。

「....ふん。誰も好き好んで己の子は、捨てまいて。
わかったよ。
こっちで引き取るさね。.....いくらだい?」

「お金なんかいりませんわ...そんな....」

「馬鹿だね、こんな厄介事頼むんだ。
いくらで頼むのか、って聞いてるんだ」


老婆が捲し立てる。どうせ人買いに売るつもりだったが。
人魚はすすり泣きながら、身に付けていた装身具を全部渡した。
高価な宝石、貝、真珠。そして....

男がくれた竜の牙で作った花の髪飾り。


老婆は小さく上玉だ、と呟くと急いで装身具をしまい込んだ。
人魚は赤ん坊の顔を覗く。
やや青白い肌、牙以外、その顔はただの愛らしい赤ん坊だった。
覗き込まれて笑う赤ん坊。
母親は泣きながら笑って、額に唇をそっとあてた。
くすぐったそうに笑い声をあげる赤ん坊。



人魚はそのまま老婆の腕に、その子を渡した。

「おう、よしよし」

老婆があやす。赤ん坊はおや?という顔で老婆を見た。

「ほら、お行き!さっさと!!」


老婆はしっし!と追い払うように手を振る。
人魚は後ずさりながら部屋から出て行く。
たまらず唇から溢れたもの。



それは静かな子守唄。
少しずつ我が子から離れながら唄う人魚。

扉をあけたまま、階段をゆっくり降りながら
最後の子守唄を歌い続ける。

唇の唄に合わせるようにぱさり、とフードが
落ち、青い髪が波に広がって行く。
伝わって行く振動。
老婆でさえ、思わず目を閉じて溜息をもらした。


赤ん坊は子守唄を穏やかな顔で聞いていた。
体中を包み込む優しい響き。
人魚はしばらく唄いながら
振り返り、振り返り遠ざかって行く。
通行人はその響きに誰もが立ち止まった。





やがて。


唄は届かなくなった。


代りに泣き叫ぶ赤ん坊の悲鳴だけが、呼び続けるように
海に響き渡って行った。