草原の満ち潮、豊穣の荒野
目次前ページ次ページ

18 深海の老司祭~夢の跡

その日、彼は怒っていた。

「腐れポンチな呼び方しやがって」


足元には数人の人魚が倒れている。
全員海流神の紋様の入った紺色の長衣。
神学生といった出で立ち。

殴られて気を失っている。
青い髪の少年の前には最後のひとり、年の頃も
同じであろう人魚。

「ちょっと待ってくれよ。だって君の名前は...」


青い髪の少年が腰の引けた相手の顎を狙って
拳を叩き込みかけたその時。

鈍い音と共に倒れたのは青い少年だった。
呆然と立つ人魚を掠めて飛んで来た酒の大瓶が
きれいに彼の後頭部に直撃したのだ。








「おっ、御大!!なんとかして戴けませんか!!」



中年の神官が回廊を走って行く。
先に歩いているのは長身に長いあご髭をたくわえた老人。
片腕に人ひとりほどの布袋を抱えている。

「い、いったい何人の神学生が毎日....」

追いついた神官が言いかけて黙る。


「ほれ、ここにその疫病神がおるわ」

「オッ...オンディー.....」


抱えられた布袋。
そこからぐるぐる巻に縛られ
これ以上ないくらい鼻に皺を寄せ歯をむいた
少年の顔が覗いていた。

「学生共にもあまり田舎者をからかうな、と
言っておけ」

布袋が暴れる。

「うるさいわ!」

軽く空いた手で手刀一発。
静かになる布袋。


「神官とて辺境に飛ばされる事もあるからの。
温室育ちはよろしくなかろ」


神官は辺境という言葉に固まった。
老人は神殿の中でも最も年老いている。
高位のマーライオンですら彼に学ぶ事は多かった。
ただの司祭とは言え、うかつな言動で機嫌を損ねれば
どうなるか知れたものではない。


「まあ、主らは他の学生をしっかり指導せい」


老人は笑いながら布袋を担いで回廊を抜けると
あるひとつの扉の前に立った。

古い言葉が詠唱され静かに扉が開く。



「ここなら雑音もないわい」


老人が中に進み扉はひとりでに閉じた。



波の音。


そこはまるで地上の海辺のように
砂浜と水平線が広がっていた。
地上を模した箱庭。
海鳥や海獣達の姿もあった。


この老人とわずかな弟子以外知らぬ場所。


「このくそじじい!何しやが..」

言葉は波間に消える。

布袋は、力まかせに波間へ放り込まれていた。
老人はのんびり波に流されて行く布袋に手を振った。


「少し頭を冷やしてこい」


身動きも出来ないまま、波に沈んで行く布袋。

巨大な海ガメや海竜が影を作り
近くを通り抜けて行った。

「...!?」


なんだ?こいつら。
泳いでいる生き物は見慣れないものばかり。
海竜なんか童話や法螺話でしか聞いた事すらない。

海底にはゆらゆら揺れる見知らぬ海藻や
異様な姿の生物がうろうろしている。


この海は変だ。


大体深海に浜辺などあるはずもない。
それどころかほとんどの者は
古い童話や伝承物語に砂浜や地上の浜辺を知るのみ。

....魔法の浜辺....?

古い童話が頭を過る。


「........」


いったいここはなんなんだ?
ここ数日学生達と一緒だった。
じじいに捕まえられてから、何度も逃げようとしたが
どうしてもこの神殿から出られない。
じじいの裏をかく事ができない。

くそったれ。

油断させてやる、と少しはおとなしく言う事を
聞いていたが、何から何まで気に入らない。
特に学生達。
ゴタクばっか並べやがって。
学校?なんなんだ、それ。

守られた場所で何を教わるってんだ?
妖魔の倒し方を本で教わってやがった。
魔法はわけがわからねえ言葉が並ぶ。
大体のんびり呪文なんか唱えてる暇があるかよ。
薬学だってスラムの飯炊き女にも劣る。

拾った地上の本を読む方が面白かった。
天文学だって地上の波間から星を見た奴すら
ろくにいない。

それに、女神。

アレを見るとオレは
頭に血が登りそうになる。その度じじいに
ボコられてこのザマだ.......


「?」

中型のクジラらしき生き物が泳いで来た。
複雑な旋律を唱っている。
周り一帯が音楽の振動に震え袋の紐がほどけた。

自由になった体で暖かい潮流に滑り出る。
居心地がいいが、寂寥さえ感じる暖かさ。


浮上して波間に顔を出してみる。


「あ...」


頭上には満天の星。
幼い頃見たあの夜空とよく似た...
いや、あの時そのものの空間がそこにあった。
波のない空間こそ深海のそれと
同じ処理が施されてはいたものの
部屋の一室とは信じがたい別世界が広がっていた。


思わず獅子の心臓星...レグルスを探すが見つからない。

微かな溜め息を洩す。
心地良い波間に揺れながら長くいたくなかった。

じじいが眺めている。


ざばりと砂浜に上がって砂を踏む。
満天の星空の下をはじめて歩いた。


「どうじゃ?」

「.........」

斜めから睨みながら、離れて座る。


「ここはどこだ」

老人は波を見たまま言った。

「夢の跡じゃよ...」


砂浜の彼方に建物だか瓦礫だか知れぬものが
点在していた。
深海とは異質の波がその先端を洗っては
引き返して行く。




「けっ、あんたでも夢なんか見るのか?」

「長いながーい夢....は見たよ」

「ふん」


老人が波間を見つめて呟いた。

「わしひとりだけの夢、ではなかったがの」

「もうろくじじいの夢なんか知ったこっちゃねえ」

「名前に文句があるなら名乗ってはどうかの。小憎」


「....ふん」


少年は立ち上がると
砂地に棒切れで何かを書き殴った。




くそったれ





とてつもなく大きな文字。



「....悪餓鬼が」

苦笑いしながら老人が立ち上がる。
少し警戒して後ろに下がった少年に
懐から本を取り出して差し出した。


「........?」

「地上の天文学の書物じゃ」

ぴら、とめくってみせる。
それは少年が波間から見た地上の星が
ぎっしりと描かれていた。
春夏秋冬の星空。
獅子の一等星はそこにあった。


欲しい。

こんなものはじめてだ。
講義で見た書物とはまるで違う。
恐る恐る老人の顔を見る。

読みたい。

老人は本を差し出したまま知らん顔をしている。

....くれるってのか?


幼い頃危険な潮流をくぐっては
海上に出てわずか数度だけ見た星の海。
あの空に手を差し伸ばした時のように
彼は本に手を伸ばしかけた。


ゴス!


本の角が少年の頭を直撃した。


「....なっ..」

「修行が足りんわ」

老人はからからと笑いながら本を少年に
放ると歩き出した。


「学ぶ気があるなら、秘密の書庫に
入れてやらんでもな...」


老人が言いながら振り向いた時。

少年はすでに座り込んで本の星空に
没頭していたあとだった。








『兄弟子の見解 』


〜オンディーン、弟弟子に関する記述〜


あの少年がここに来てそろそろひと月になる。
老師の気紛れにも困ったものだ。
あんな素性もわからぬ者を神学校に
入れられるとは。


己から学ぶつもりもない者を学ばせる必要が
どこにあるのか、理解に苦しむ。
託された以上、己の勤めは果たすが
態度と言い物腰と言い
全てに問題がありすぎる。


.......ぼやいても仕方が無い。

今日は神学生達と、朝から一緒にしてみた。
様子はとりあえず落ち着いて見える。
神学生服も、黙って着るようになった。
同世代の者達と一緒の方が早く馴染むだろう。
そう考えて講義に出した。


神殿内講堂。朝の講義が始まる。
奴は最後列に座っている。
教壇で始められる講義。
天体と海洋学。
どうやらまともに聞いている。

だが....さっぱりまわりの学生とは話もしない。
学生達も胡散臭そうに見ていた。
数刻後。講義が終わる。


「おい見ろよ、あの青い奴。オンディーネだってさ」

「オンディーヌちゃん」

「...ガラの悪そうな顔だな。
おい、アレもしかしてウミヘビじゃないか?」

「獣人の?そんな連中がなんで」

「獣人ってさ、辺境に流された罪人が獣や妖魔と
交配して出来た種族なんだって」

「うわ、やばいよ、それ」




人魚の学生達が早速品定めを始めた。




まあ、仕方あるまい。
見た目以前に本人に溶け込む意思がない。



「挨拶もなしか」

「礼儀を知らないらしいね」

「.....教えるか?」



血の気の多い学生達が面白そうに目配せしあう。
ほっておくか。身から出た錆だ。



奴はそそくさと席を立ち講堂から出て行きかけた。


「おい、待てよ、君はどこから来たんだ?」


行く手を塞ぐように学生達が取り囲む。
質問の言葉は穏やかだが明らかに敵意を含んでいる。
脅して、相手の出方を見るつもりのようだ。


「ここは神聖な学び...」



学生がひとり飛んだ。


喋っている顔の真正面、奴はなんのためらいもなく
蹴りを入れたのだ。
鼻から血を吹いて数人を薙ぎ倒し
その学生は飛んで行った。




「何を....」

「この...」

「君..」

「やめたまっ」


4人飛んだ。


...........人の話を全く聞いていない。
いや、聞く素振りすらない。

腕に覚えのある者は数人。しかし全員ケンカ口上を
言う間もなく、いきなりやられた。




「い、い、いきなり卑きょ..」「ケンカなら1秒で来い」


喋りかけて殴り倒された学生を
踏んで立ち去りながら
奴が吐き捨てた。




「眠っちまうだろうがよ」





........協調性ゼロ。


好戦的、粗暴。口も悪すぎる。
こんな奴は百年たっても神官など、ましてや司祭など無理だ。
老師には、適正極めて悪し、と伝えるのが妥当のようだ。

全く冗談事ではない。