草原の満ち潮、豊穣の荒野
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17 深海の老司祭〜オンディーン




「名無しでは困るからのう....」


場末の酒場。
黙り込んだ少年を前に酒を呷りながら老人は腕を組んだ。


「ふむ」



立ち上がり、何気に見ている店主を呼ぶ。


「桶をくれ」

「は?」

「桶じゃと言うておる」



店主はそれ以上訊ねず
老人の要望に応えた。


テーブルに乗った大きな洗面器程の容器。
食器やスープ皿はどけられ酒瓶のみが
数本並べられている。
老人は深さと広さを確かめると満足そうに笑った。
少年はおし黙ったまま、座りもしない。


下を向いたまま彼は戸惑っていた。
何かがおかしい。そう自覚したものが
さっきから大きくなって行く。

老人の問いかけには徹底抗戦を決めている。
何ひとつ話すつもりはない。




そしてそれより今。

頭の中の奇妙な感覚。
激しい頭痛は消え失せ、陶酔感さえ伴って
瞼に焼き付いたものを『眺めて』いた。

声のない映像にも似た記憶の中
あの男が右の肩を押さえて叫んでいる。

それは少しずつはっきりと...



「さて、と」


老人がおもむろに酒瓶を桶に傾け始めた。
トプトプとテーブルにあった大瓶をすべて
流し込んでいく。
強烈な酒臭、鼻歌まじりの老人。






「司祭、まあ程々...」

声をかけた店主が眼を剥いた。








「があっ!!」




飛び散った酒飛沫。


老人が突然、連れの頭をひっ掴んで
桶の中に突っ込んだのだ。




「しっ...しさ....」


呆然と立ち尽くす店主。
振り返った店内の客が全員固まる。



突発的な静寂。


老人の鼻歌にごぼごぼと異様な叫びまじりの
水音が重なって響く。
もがく少年の頭を片手で押さえ込んだまま
老人は次の酒を注文した。


「しっ司祭、あんたその酒は最高度数の...」

「世界中で一番旨い酒じゃな」

「ぶはあッ!!!!」


激しく髪から酒を飛び散らせて
少年は桶から脱出した。



「なっ...何しやが...」

ゲホゲホと咳き込んで口上が続かない。
怒鳴り声だか呻き声だか判別不能の叫びをあげて
のたうちまわる。


「.....!!!!」


急激に喉から全身が焼ける。
声が詰まる。顔はおろか耳まで赤い。
心臓がひっくり返りそうな衝撃。
胸をかきむしって床を転げ、叩いた。


「もういっちょ」

「...げェ...」


悲鳴をあげる間もなく再び酒の海に戻される。
青い髪がアルコールを吸い込んで行く。
海の者の一部は髪も呼吸器官に相当する。
青い色が急激に色褪せ水色に変わった。



「おっと」


老人が少年を掴み上げてテーブルに放った。
少年の肩が痙攣している。



体中の血がアルコールになったような気分で
彼は突っ伏したまま老人を睨んだ。

心臓が飛び出しそうだ。


更にドブドブと酒が浴びせられる。
老人は浴びせながら時折自分もそれを呷っている。


....殺される。
このクソじじい、絶対殺す気だ。

椅子から崩れ落ちる少年。
指先一本言う事を聞かない。

体が内臓から悲鳴をあげているのがわかる。
まるで内臓の消毒だ。
標本にでもするつもりか。



天井や壁がぐるぐる回っている。
目の焦点が全く合わない。


このまま殺されてたまるか。
帰るんだ...

こんな所で....!



少年は気力を振り絞って
口を開き牙を剥いた。


待ってました、とばかりに口へニシンが
突っ込まれる。
細い牙はふっくらした魚の身を
くわえて噛みちぎった。

肉片が喉をくぐり
思わず飲み下してしまった。


「...........」


猛烈な空腹が
我に返ったように襲って来る。

テーブルのスープ皿が眼に飛び込む。
リラの声が聞こえた気がしたのは
アルコールのせいか。


老人が目の前にスープ皿とスプーンを置いた。


再び思考が混濁した脳裏に
幼い日の騒々しい食卓がよぎる。
懐かしい声と共に。





『ほら、さっさとお食べ』










少年は食卓へ突進していた。


物も言わず皿を奪い取ると
スプーンを投げ落とし直接口をつけた。
魚介の具材は手で掴み出してほおばる。


酒場の人間は苦笑いするとまた酒や賭け事
猥雑な談笑に戻った。



「やれやれ、ケモノ喰いか。食事の躾けからやらねば
ならんようじゃの」


老人が目を細めながら食べ物を追加注文した。
勿論己の酒もたっぷりと。
桶の酒は既に空。


少年は脇目もふらずに喰い続けた。
己の生命力を取り戻すかのように
ガツガツと飲み込んで行く。

体はようやく受け入れ、全力で血肉へ変える為に
働き始めた。












数時間後。




大量の空になった大皿と酒瓶の間で
眠り込んだ少年の傍ら、老人が一人
手酌で飲み続けている。

皺の刻み込まれた深い目元は
眠る少年を見つめていた。
グラスを持たない手には緑色の小瓶。
少年が金貨の袋と片腕と共に持っていたもの。



「どうしたもんかのう...」



時折賑やかな寝息を立てている
10代の少年の横顔。
まだ子供の面影を残している。
そして、そこに走った大きな傷。





老人が深刻そうに顔をしかめ目を閉じた。

「....しょんべん小憎と呼ぶわけにも行くまい....」



後ろで誰かが
カクテルを注文した。




「マスター、『オンディーネ』を頼む」





......それでいいか。



少年の寝顔を覗きながら老人が笑った。


酒の名も悪くない、と老人はひとり朝まで飲み続け
『オンディーン』と呼ばれる事になった少年は
その間、一度も目を覚ます事はなかった。