草原の満ち潮、豊穣の荒野
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16 深海の老司祭〜じじいと小憎


海の底。

閉ざされた一室。
窓は高い天窓がひとつ。
海の光が夕方である事を告げ
少年を包んでいる。


彼はずっと見上げて立ち尽くしていた。
ベッドと小さな机があるだけの部屋。

目覚めてからずっと窓ばかり見つめていた。
頭の中はからっぽのまま。
一度にいろんな事がありすぎた。
軽い記憶障害も伴ってブルーは人形のように
ぼんやり何時間でも立っていた。

ろくに食事もしていない。
そのかわり立ちくたびれては
ただ貪るように眠った。


冷めた食事が転がっている。
調理された魚介と特殊な海のパン。
地上のそれとよく似た、高度な知恵と技術が生み出した
栄養価の高い食べ物。

かつてスラムで口にしたものとは比べものにもならない。
リラの作った食卓も心は砕かれていたが
あまりにも質量共に乏しかった。


かと言って、口に合わないわけではなかった。
空腹だったし選んで喰う事など彼は知らない。
食べられる時に食べなかった者が成長できる程
豊かであれば『スラム』とは誰も呼ばない。




喉を通らなかったのだ。
どうしても。



一口齧っても飲み下そうとした時
ちぎれた腕が目に浮かび吐き出してしまう。

多分己がひきちぎるか、喰いちぎるかした腕。
ついこの間まで、話をし、仕事や取り引きを教わった
スラムの大人。
妖魔や獣などではないれっきとした海人。
小さな頃は菓子などくれた事もあった男。

おそらく生きてはいないだろう。
そしてもうひとりいた男も。

金貨の入った皮袋は乾いた血で違う色に
染め上げられていたし、己の体にもその痕跡があった。
切れ切れだがはっきり覚えている。



人を喰ったのだ。



憎悪...悪意...殺意...空腹...

覚えている。

喉元に喰らいついてそれから...
後は精神が拒否していた。
記憶を拒絶しているのだ。
思い出そうとすると激しい頭痛に苛まされる。
食べ物を口にすると全身が震えた。

あのちぎれた腕が強烈に瞼に焼き付いて離れない。
疲れ切って眠り、目覚めても。

どのくらい眠ったかわからない。
身も心も疲れ果て
ぼんやりと天窓から見える
夜に変わった空を見つめていた。




「強情な小憎じゃて」




ガチャリ、と錠が外される音。
ひとりの老人が入って来る。
ブルーは振り向きもしなかった。

自分をあっさりと取り押さえた大柄な老人。
そのままの食事と放心しきった少年を眺めて、首を振る。


「仕方ないの」


がし、と首ねっこを掴み上げられた少年は
そのまま外へ引き出された。
抵抗もせず人形のように彼は引きずられて行く。
その目には意思も感情もない。



長い渡り廊下を老人は歩いて行く。
白く長い髭と総髪を束ね
年寄りと呼ぶには大柄な体格。


青と白の長衣には海流神の神紋が縫い上げられている。
豪華ではないが機能性に優れた衣服。

夜も尚、ひときわ鮮やかな色彩の庭園を歩く
青と白の老人。


庭園の奥から誰かが姿を現し老人を呼んだ。
引きずられた少年を見て眼を剥いたその男は
何か言おうとしたが老人に制された。



「適当に頼む。ガレイオス」



老人はそう告げるとすたすた庭園を出て行く。



『ガレイオス』と呼ばれた男は
呆れた表情でそれを見送った。

金の長い鬣と純白の長衣。
ある種の神々しさを伴っていながらその顔立ちは
獣に似ている。

彼はすぐさま厳しい表情に戻ると
老人とは反対の方角へ歩いて行った。






庭園から街へと歩いて行く老人。

神殿の敷地から出た老人は口笛を吹きはじめた。
小柄とは言え、ひとりの少年を引きずって余裕の口笛。


だがブルーは何も思わなかった。
街を見ても、朗らかな口笛を聞いても。

ただ人魚にすれ違った時だけ
眼を固く閉ざした以外は
なにも。




一軒の酒場。

清潔な街並みの裏手にはそれなりではあるが
多少吹き溜まりめいた場所があった。
老人は長衣をひょいとまくって神紋をあっさり隠す。

ただそれだけで彼はあっという間にその場に馴染んでいた。
まるで元々、そこの住民ででもあるかのように。

客はあまりいなかった。店主が慣れた仕種で迎える。
チラリと連れを見て肩をすくめはしたが。


「いつもの奴とアレを頼む」


老人はすたすたと馴染みのテーブルに歩み寄り
少年を放り込んだ。

椅子に座らされる。
人形のようにダラリと手を下にたらし
うつむいたまま。




テーブルに運ばれた酒瓶と暖かいスープ類。
鼻をくすぐる食べ物の匂いに胸がむかつく。
やはり体全体が拒否していた。

それでもやや汚れた壁や酔っぱらった獣人達の
どこか懐かしい空気が少年の神経を落ち着かせていた。

ほんの少し思考が戻る。


目の前の老人はにこやかに酒瓶を見つくろっている。
並んだスープ皿はどこかリラのシチューを思い出させる。


...おかしい。


餓えを感じているのに体が拒絶している。
さっきとは少し違う。


幾らかは瞼に焼き付いた腕を追い払う
心の余裕が生まれていた。
ある程度の適応能力を備え
生き延びてきた少年。

例え一緒に育った子供が死んでも
何処かで想い出を切り離せないようでは
次は自分がそうなる事を知って育ってきた。



...だが。


まるで.........喰い物はこれじゃない、とでも
いうかのように体が反応しない。


リラのスープを思い出してさえ何も感じないのだ。
どうしたんだろう....

少年の無表情な顔に少しずつ動揺の色と
何か違ったものが浮かび始めた。



「...名前は?」



老人の問いかけ。
まるで天気でも尋ねるかのような。


「....え...?」


まとまらない思考を問いかけで中断された少年は
ぽろりと素の顔で老人を見た。


「ブ....てめえに関係ねえだろ」


一瞬答えかけた少年が吐き捨てる。
もう誰も信じるもんか。


ブルーは暗い眼で老人を睨みながら
笑った。かつてない程歪んだ笑顔。



「ほっほっほう。

阿呆面で小憎が笑っとるわ」

老人の笑い声。


少年が赤面で椅子を蹴り
その拳を老人に振り上げかけて
止めた。



「やらんか。しょんべん小憎」

「!」


老人は椅子にふんぞり返って
防御する気配すらない。



「...誰がしょんべん小憎だ」

絞り出したような
低い声。




「なんじゃ、じゃあ、お前は赤ん坊か?」

「...殺されてえか。このクソじじいが」



ブルーの眼が細く怒気に狭められる。
なんだってこんなクソじじいにまでバカにされなきゃ
ならねえんだ。




「赤ん坊が何か申しあげとるわい。

母親はどこかの?」

「..........」



少年が殴りかけたその手で
老人の胸ぐらを掴みあげた。


「こっ.............っ.....」


何かを言おうとして彼は老人を睨みつけたものの
そのまま横を向いた。

唇を噛み締めたままの無言。

























「名は....あるか?」








穏やかな声で
老人が再び問いかけた。
少年の形相で孤児の情報を読みとったのか
聞き方が若干変えられている。



少年はゆっくりと老人から手を離したが
うつむいたきり何も答えなかった。





「名無しのままでは困るからのう....」




老人はふんぞり返ったまま酒を呷ると呟いた。

少年は下を向いたまま黙り込んでいる。













次回は 『深海の老司祭~オンディーン』を予定しています。