以前、友達と町歩きをしたときの思い出です。 方向音痴で自分がどっちを向いているのかさっぱりつかめず、知らない場所を行くときはいつでも、悪い夢の中をさ迷っているような気分になる私に、友達は呆れていました。彼女は旅行が大好きで、旅によって知らない物事や見たことのない景色を知るのが無上の喜びであるという人でした。
私 「だから旅行とかに出るのも、不安であまり好きじゃない。すぐに体調を崩すし」 友 「でもそれって、人生の半分を損してると思うんだけどなあ!」
また少しして、基本的に女同士で過ごすことが多く、男性がどちらかと言えば苦手である私にも、友達は呆れていました。
友 「人類の半分は男だよ。それって人生の半分を無駄にしてるよなあ」
……ありゃ。 計算がおかしい。
それに気づいたのは、言われてから半年経ったときのことでした。
例えば、世の中には本を読まない人もいます。それは確かに何だか、大雑把に言って人生の半分くらいを損しているような気が、私にもします。私の先生には、終生山に登っていた人もおります。先生にしてみれば、山のない人生なんてものは半分生まれてこなかったようなものでしょう。よく知りませんが、台風が来ると海に入りたがるようなサーファーの方々にとっては、海がなくなったら人生を半分なくしたようなものだと思います。本は置いておくとして、海や山はかなり危険があるので、人によってはそれに打ち込んでいること自体が、人生を無駄にし続けているように(『そんな下らないことのために……』)感じられると思います。
どれも真実です。そうやって半分半分と色んな人生の『半分』のことを考えていったら、何だか物凄く嬉しくなりました。人生の半分、とんでもない可能性の塊の中からやってくるものなんだなあ、と思ったもので。
友人が本当に言いたかったこととは確実に違うと思いますが、何か違うものの見方を見つけたような気分でした。
大切なことは、目に見えません。見えないものが四次元のマトリョーシュカみたいに、いくら重なっていても、その計算は少しも間違ってはいないということです。
|