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ムシトリ日記
加藤夏来
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2006年11月03日(金)
サルベージ2「カルネアデスの板」:緊急避難

標題はすごく正直に申し上げますと、『金田一少年の事件簿』から拾ってきた言い回しです。個人的な出典はともかく、この言葉自体は少しも軽いものではありませんで、古代ギリシャの哲学者カルネアデスが発した設問を指し、現代に至るまで法の世界では実際に使用されている、緊急避難の概念を表すものとなっています。

設問は以下のようなものです。



「ある舟が難破し、二人の男が海に投げ出された。そこに浮いているものは板が一枚しかなかった。二人ともがしがみつけば板が沈んでしまうことが確実な場合、力の強い男が弱い男を押しのけ、要は相手を殺して生き残ることは許されるか?」



『自分の生命の危機をもって、相手の生命を奪う理由とすることは、罪であるや否や?』
もっと乱暴に表現すれば、

『隣の奴の命より自分の命の方が大事だと言い切っていいのか?』

人間社会の法は、実にはっきりこれを無罪と断定します。善であると規定しているわけではありません。生き残ったものが罪の意識を負わずにすむということも、恐らくないでしょう。しかし、訴追は不可能である、というのが、程度の差こそあれ正当防衛と同様に導入されている、緊急避難の原則です。

ここに示されているのは、罪が物理的に有限なものである、ということではないかと思います。状況はどうあれ殺害を行ったという事実に変わりはないにも関わらず、ほかの条件が成立していれば罪の物理的な表現である刑罰は行われません。状況判断を加味して量刑を行うという点で言えば、法全体の立場がそうだと思われます。

当たり前ですが、現実世界に無限はありません。多分に精神的・宗教的な根拠を持つ罪は、時に現実に行われたことよりもずっと大きな広がりを見せることがあります。しかし、それに対して実行される刑罰は一定の抑制を受けざるを得ません。つまり、非常にしばしば理不尽です。

それは、ある人間の集団を人間関係の面で運営していくための技術―――政治―――の一部として生まれた、法というものの宿命を考えれば、仕方のないことではないかと思います。人類の歴史、文明そのものを、人間関係扱いすることに納得してもらえればの話ですが。

ただし、当然社会の価値観と個人の価値観は別物です。どーしてもマンガの話になりますが、冒頭に挙げた金田一少年の事件簿の犯人の描き方はこの点で、実に単純明快かつ極端で象徴的なものでした。物理的な制限(事情)を無視し、頭の中で一つの罪を無限に拡大させていった結果、犯人にとってその他の人間の存在は極端に縮小し、(以下ネタバレ反転) ただのイニシャルでしかなくなってしまいます。彼にとってそれを消すのは大したことじゃありませんが、社会的にはその行為は虐殺だったわけで。

ここまで分かりやすくはなくても、特に遺族の処罰感情は結局のところ何にも代えることができず、その意味で公正な判決はあり得ない、ということになるのでしょうか。

罪と罰を感情としてとらえた場合、冒頭の設問は非常に論じにくいです。これが、内面世界にある罪と罰が、外にある現実と触れ合う場所についての設問だからではないかと思います。(変な言い方になっていますが、要はこの場合の罪と罰の両方が、現実の都合によって定められたということ)罪というものが完全に大多数の人の都合によって決められているのならともかく、そうでない個人的な部分が大きい限り、カルネアデスの設問は小さくない意味を持っていると思います。