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ムシトリ日記
加藤夏来
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2006年11月05日(日)
サルベージ4「『分からない』を考える」

大学の研究室にいた頃、ほとんど毎日のように失敗の実験をしていました。私の腕が悪かったというのもありますが、元来が実験というのは失敗するためにやっているようなもので、その中から論文に使える数値が二つ三つ拾えればいい方です。

だいたいの実験は、あらかじめ結果が予定されています。”論理はこういう風であるから、このようにすればこうなるはずである”という意図のもとに実験を行うわけです。もちろん理屈どおりになんか運びゃしません。

学部の四年生や修士は教授の言うとおりに実験するので、理論だけは立派なもののはずなのに、それでも上手くいきません。で、どうなるかっていうとなーんにも分からないわけです。あまりに分からないことだらけなので、たまに分かることがあるとすっ飛んでいって自慢します。(研究者は死ぬまでこれを繰り返す種族です)

もちろん、論文等で表に出すことは全て”分かった”何かであるので、明らかにすることは重要です。おおげさに表現すれば、科学の歴史はひたすら”分かる”ことの価値を追い求めてきた結果です。ですが、そこで短絡的になりがちな態度を戒めるために、私たちは”分からなかった”実験を忘れてしまわないようにと教えられました。難しく表現すれば、ネガティブデータの尊重と申します。

失敗した実験を完璧に忘れてしまうと、まったく同じ実験と同じ失敗をやらかしかねないという実務上の問題もさることながら、そこには”分からない”部分を省いては、自然界の姿が正確には掴めないという思想があったと思われます。

何度も言いますが私の実験が下手だっただけじゃなく(血涙) 実験、つまり何かを分かろうとするこころみのほとんどは失敗します。自然とは、基本的に分からないものです。分かっているほんの僅かなことの裏側に、山のように巨大な分からないことがあると理解していなければ、得られる理論は片手落ちになりかねません。

また、”分からない”という状態は、実は”分かった”という次の状態になるまでの扉でしかない場合もあります。その意味では、いつかその扉を開けるための鍵が手に入ったとき、間違いなく戻ってこれるように扉の場所を覚えておく必要があります。

上記の鍵と扉を合わせるためのシステムが地球規模で確立したために、人類は手の届く限りの世界を”分かる”によって開拓してきました。情報化社会です。その一方で”分からない”に耐える力は徐々に衰えているし、理由の分からない状況に正しく地位を与える技も、片隅に押しやられているようです。



ものごとが明らかになること、情報が伝達されることには、果たしてそれほど価値がありますか。



この価値を相対化して眺められればいいですが、偏重した結果その他の部分が見えないようだと、気づかないうちにバランスを崩しかねません。