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ムシトリ日記
加藤夏来
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2006年07月03日(月)
『煉獄(インフェルノ)』断片2 橋の魔

明け方にねぐらを出た。院の聖職者はエジェウス島で賎民が寝起きすることを嫌っていて、わたしは橋のたもとに居を定めている。それだけの理由ではなく、ばかばかしいことに、自分たちで雇い入れておきながら、彼らはわたしを忌み嫌っていた。
大河エイナールの向こう側から、人馬のたてる鎧轡の音が聞こえてくる。それが自分の配されている剣騎兵隊のものであると、わたしは自分の剣をとって橋を渡る。どうしてかと聞かれても困るのだ。寝床にいようが酒をくらっていようが、それは聞こえ、判った。だが、何の前触れもなく橋の上にわたしを見出すことになる騎士たちにとって、わたしは不審を通り越して不吉な剣士と映ったらしい。

『橋に立つ者は迷い歩く魔である』

南岸部落の古い言い回しを、わたしはかなり後になって知った。土着の迷妄に耳を傾けてはならないと教えられる、当の南岸出身の騎士にとって、さぞ悩ましい伝説であっただろう。逆にその畏れがために、わたしを手元から離したがらない部隊長もいたのだから、よいことか悪いことか分からない。

「ヴィットリオ!」

馬上から若々しい声が呼びかけた。わたしを無視するか、せいぜい歩兵の中に交じるのを不気味そうに見守っているだけの騎士たちの中で、その姿はことさら清新に映った。逆の方向からは、橋の魔に何気なく声をかける少年の姿が、どのように見えていたのだろうか。
地勢と道に関する実務的な質問に短く返答しながら、思いがけずわたしは胸の躍るような感情を楽しんでいた。鬼、畜生を従えるのは、異界に生まれた者がふさわしい。陳腐な連想だったが、奇怪なものに苦しめられているからこそ、ひとの怯える存在にも脅かされないという彼のありようは、何がなし子供の頃の、誰かと秘密を共有する埃っぽい喜びも呼び覚ましていたのだ。

「笑っているのか、ヴィットリオ?」
質問を終えると、彼はそう言ってまじまじとわたしを見つめなおした。聞かれると同時に、本物の笑みがこみ上げてくるのを感じた。
「どう思う?」
「笑っているな」
「その通りだ」
「彼らは怯えているのか?」
二つ目の質問は少し低く発せられた。騎士も歩兵も時々こちらを見る。誰からも表情は読めない。わたしは衝動的に手を伸ばすと、少年の手甲の上に口付けた。

「それも、思ったとおりだ」




いぶかしげに首を傾げながらも、彼は馬を進め、隊列は北へ動き出した。