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ムシトリ日記
加藤夏来
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2006年06月28日(水)
『煉獄(インフェルノ)』断片1 蟲

アメデーオが去ってしまったあとで、彼は柱の陰に身を隠すようにして、丸めた自分の手の先を見ていた。つめを、そこに出ているささくれが気になるという風に、もう一方の手で細かく引っかいていたのだ。
無心に手遊びをしている隣へ、何も言わず歩み寄っていくと、彼はその姿勢のままで答えた。

「ヴィットリオ、北部平野の町を討伐するよ」

ひと世代前に始まった定住の牧畜が、そろそろ力を蓄えてきていた。奴隷労働同然の開拓が終わり、優良な羊の放牧地に変わったそこは、攻略しがいのある資源になったのだ。邪宗門と呼ばれたサザン大陸の神を奉ずる部落で、近隣の土豪とのつながりは薄い。なるほど甘い獲物だった。
「五番隊が作戦を行うそうだ。その前に騎士階級のものが査察を行う必要がある。二個小隊に歩兵を加えて、」
「その手はどうした?」
指先に目を落としたまま、彼はふっと押し黙った。

「虫が」

相変わらず朝の光のように明瞭な声だ。
「アメデーオ隊長が北部の地勢について話しているときに、隊長のまなじりに何か動いていてね。見ていたら長い虫がうごめきながら、目とまぶたの間や唇の隙間から這い出してきていたんだ。らせん形に長虫が伸びて、鼻の横に垂れ下がりながらのたうっていたし、袖からは胡麻みたいな蝿が飛んできた」
アメデーオは声高だった。豚と犬の血――特に南岸の貴族が好んで使う、外国人の言い回しだ――を罵る、誇りと確信に満ちた長広舌は、中庭を挟んでいてさえ聞き取れたものだ。
「作戦の基礎構想について話し始めたあたりで、そういうものが私にも飛び散るようになった。それから、爪の間や耳から虫が出てきた。掻き落としているんだが、なかなか止まない」
言うと、きれいに整えられた爪の先を、彼は途方にくれたような顔つきでじっと眺めた。まぼろしの虫を追っている翠の眼球は、よく見なければ分からないほど小刻みに上下に震えて、少しでも座りのいい場所を探しているようだった。

石を切った窓からの日光が、あごを斜めに横切っている。美しい少年だった。彼がこれから、わたしの上官になるのだ。