子守唄だった。
女は窓の傍を動かない。ゆえに、女が手にした燭台も動かない。窓の外は天地を水の糸で繋ぎ止めるような容赦のない雨で、子供には『それ』がまったく聞こえなかった。にもかかわらず、子守唄であることを疑ったことはなかった。女が石組みの窓に向かって彼に背を向け、微風に揺れる長い黒髪以外に動くものがなくなっている間も、やがてゆっくりゆっくりとこちらへ体を回し、その紅の唇が開閉しているのを眺めるときも、彼の耳は唄を聞いている。木と金属の擦れあっているような、見たことのない虫が死のうとしているような。果たしてそれを聞いていると表現してもいいものだろうか。頭の中、頭蓋骨の裏側、意識の表皮の内側を這いずっている、それは終わらない血の蠕動だった。
ぎりぎりぎり。ぎりぎりぎりぎりぎりぎり。ぎりぎり。ぎり。
またあるときは、扉の端の黒い鋼鉄の枠に、ずらりと黄色い骨ばった指が並んでいる。外は午後の光の中に、しゃくなげが赤い花を開いている。金色の日光が煙のように広がった灰色の老人の髪をすかし、その女の輪郭を燃え立たせていたが、動くものはやはり一つも見つからなかった。女の円い目がたったひとつ、扉の端にかかるようにして彼を見つけ、それも同じように動かない。母の髪はその息子と同じように濡れ光って黒く、瞳は海の向こうの翠玉のように澄んでいることを、幼いながらによく知っていたが、彼は扉の向こうのそれが母であると考えていた。匂うように温かい大気の中、子供は母と向き合っている。その片方の目は、彼を決して離れない。
彼は幻覚を見る。見えないはずのものを見る。つじつまの合わないことを聞く。偽の記憶を得る。眠っているときもそうでないときも、悪夢は構わず彼をおとずれ、統一のとれた記憶の中に、すすの交じった傷のような、由来のわからない幻を残していった。もうずいぶんと馴染んだものだったので、彼は唯々諾々と幻覚を受けた。黙々と記憶のつじつまを合わせた。教えられて無い記憶の穴を埋め、こまごまと推し量りながら自分の心を作り直していく。それでも彼の目は、耳は、時には肌もが、無表情に彼を裏切った。
ふつうは気が狂う。
彼はこれには素直に首肯する。
自分は気が狂っている。
雷神の日の午後遅く、カァラはマイエラ卿の息子を産んだ。日の数え方は古来よりの慣習であって、雷神の日はカラス麦の日と魚の日の間であるにすぎない。しかし、この時ばかりは神々の父である雷神の威光が、紫色の空いっぱいに荒れ狂っていたという。
下女の出産にすぎないとは言え、生まれてくるのが領主の息子であることは分かりきっていたため、カァラには少なくない数の付き人と医師がつけられていた。しかし、そのうちの幾人かはうずくまってものの役に立たず。残りのものは領主に初めての子が生まれることを、天が憤っているのだと囁き合っていた。
マイエラ卿クレメンテの世が続くことを是とするものはきわめて少なく、言祝ぐものとなると絶無である。大河エイナールの南北に暴威を振るったクレメンテの軍勢の爪跡はこの年まだ生々しく、侍者たちの中にさえそれによって身内を失った者が存在した。クレメンテはそれを知っていた。知っていて愛妾の傍に配した。民の心を縛る恐怖の力を信じていたからである。それは正しかった。そして少しも善くはなかった。
初めての産褥を呪われた薄暗がりの中で迎えながら、カァラは気丈だった。ただ、繰り返し主人の所在を尋ねた。貧しい移民の女である。身内も友人もない、子の父以外にすがるものがなければ当然のことであろうが、彼女にそんな寄る辺なさや弱弱しさは無縁のものだった。侍女を急き立て、医師を叱り飛ばし、彼女が見せようとしていたのは生まれてくる子供以上に、空を裂く白い閃光であったという。
「悪魔だ!」 カァラは叫んだ。 「悪魔だ! 空を見ろ! 空を見ろと伝えろ! 空が吼え猛っている! 大気がのた打ち回っている! 何が生まれるか、何の子供が生まれるか! 天地が呪い狂っている! 悪魔の子が生まれると叫んでいる! 空を見ろ、空を見ろ、空を見ろ!」
……マイエラ卿は閃光のほとばしる空を見ることはなく、生まれた子供を見ようともしなかった。
何故だろう? 妾腹とは言え、彼は領主の初めての息子だった。乱脈をきわめた生活にも関わらず、この子を含めてたった二人の子にしか、領主は恵まれなかったのだ。にも関わらず、彼はその子供たちに、何一つ与えようとはしなかった。武の世界に生きる者が自らの血を継ぐ人間に注ぎこもうとすること、狂気の如し。マイエラ卿はその数少ない例外である。彼の与えるものは、恐ろしい。
これらの二つの物語は、同じ人物によってもたらされた。いつどこでかははっきりしない。彼は私の僚友で、上官となった。その縁も切れてかなり経つ。だから私は自分の語るものが彼についての記憶なのか、自分のまぼろしなのか、今ひとつ分からずにいる。それでも構うまいと思うのは、話そうとしているのが他でもない彼についての思い出だからだろう。その顔を思い出すたび、私は人の皮一枚の下に眠る異郷のことを考える。常にその身を灼く劫火の向こう側から私たちを見ていた、一人の男のことを考える。
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