ルイス・キャロルの不思議の国のアリスは児童文学の古典としてつとに有名ですが、不思議の国に比べればマイナーなその続編に、鏡の国のアリスがあります。前作同様ジョン・テニエルの挿画が魅力的なこの本の、最も有名な絵は「鏡の中へ入っていくアリス」と「鏡から鏡の国へ出てくるアリス」がセットになったものです。
化学とはもっとも縁が無さそうなこのイラストは、昔私が所属していた研究室のホームページに、分からないくらいうっすらと使われていました。しゃれ者の教授がやったらしいのですが、それが何であるかと、何故使われているかについて気づいた人は何人もいなかったため、けっこう寂しい思いをされていたようです。
研究室で手がけていたのは、不斉触媒でした。これはある物質を合成するとき、その物質の片方のエナンチオマーだけを合成してくれる触媒を差します。と言って分かるのは専門の人だけです。エナンチオマーとは鏡像異性体、「鏡に映すと別のものになってしまう分子」を差します。
むつかしいことは置いといて、右手と左手を比べてみてください。鏡像異性体は両手と同じく、「表」と「裏」のある構造をした分子です。分子量もそれ以外の構造もまったく変わらず、融点、沸点、水溶性などの物理的数値はすべて同じ価を示します。にも関わらず、甚だしい場合は「右手構造の分子は舐めると甘いが、左手構造の分子は苦い」等のまったく違う性質を持ちます。
この性質を持つ条件は、「一つの炭素に四つの異なるものが結合している」構造を持っていること、のみですので、有機物質のかなりの部分、アミノ酸のほとんど全てが適用されます。すなわち、人間というか生き物の体は鏡像異性体の塊です。
アリスに話を戻します。鏡の国に入る前に、「鏡の国ではミルクの味が違う」云々の台詞が挟まれています。これは化学的に完全な事実であって、どうやらキャロルはオックスフォード大学の教授仲間から研究結果を聞いてでもいたらしいです。ミルクの味をかなりの部分決定している蛋白質はアミノ酸で構成されていますので、左右反転させると味がまずくなる以前に、体内の酵素が受けつけず、消化できません。
そう、実は一部の特殊な例を除いて、生物が代謝するアミノ酸は片方の鏡像異性体だけで構成されています。そして、右左が反転しただけの構造である鏡像体は異物となってしまい、身体に対して不具合を起こす例が多いのです。
鏡像異性体について学習を始めるとき、必ずひかれる例があります。その昔、ヨーロッパで開発された睡眠薬がありました。これは安全な薬品であるとして商品化されたのですが、ラセミ体すなわち右手型と左手型の分子が混合された状態で販売されていました。化学合成された分子は基本的にラセミ体になるのが普通で、「右手」と「左手」を分離するのは非常に困難であるのがその理由です。
しかし、この睡眠薬の場合、「左手」は妊娠中の女性がある一定時期に服用した場合のみ、恐ろしい副作用を持っていました。「コンテルガン」もしくは「イソミン」、後に言うサリドマイド薬禍事件です。
サリドマイドの場合、問題があったのは片方の鏡像異性体だけで、鎮静作用を持つ「右手」は催奇性を持たないことがはっきりしています。ただ右と左が違うという条件だけで、鏡の国は迷い込んだ生き物を餓死に追いやる、死の国になるしかありません。自然のもたらす条件の差は、大きい場合も、小さい場合もあります。ただ、小さく見える差が本当に小さいかどうかは、結果が出るまで誰にも分からないのです。
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