出張のときに、いつもの民宿が満杯だったため、会社が奮発していいホテルに泊めてくれたことがあります。何も無い土地柄ですので、上がった宿泊費はほとんど全部が食事代に注ぎ込まれます。結果、その出張の間は結構なご馳走が出されました。高級というのではなく、土地の物の味を生かした、本当の意味でたいへんいい内容のお料理だったと思います。
見た目やら説明やら実際に箸をつけたときの味わいやらで、私は心からその料理の価値に納得しました。量も栄養もしっかりしたもので、さすがにここでサービスに差をつけざるを得ないホテル側の心意気を感じたものです。で、私は豊かな気持ちでそれを楽しみました。
そして、お腹を壊して一晩苦しむことになりました。
原因は単なる食べすぎです。料理にはまったく責任はありません。全体の量が多すぎたにしたって、それはもうほんのちょっと胃腸の丈夫な人なら問題なく消化できた分量だと思いますし、間に二三時間置くことができれば私でもきれいに平らげられたと思います。
ですが、翌日から私はそれらのご馳走を半分残すことにしました。何度も言ってるように、価値のあるお料理です。豊かで、栄養があり、消化できればたぶん体にとてもいいです。事情を知らずに見れば、ずいぶんもったいない、そして失礼な行動をしていると思われたかもしれません。ですがその豊かな栄養は、私にとっては必要のないものでした。無理をして詰め込めば詰め込んだだけ、体に害になるだけだったのです。
人の成長の過程を思うとき、私は最近まったく関係ない、この時の経験を思い出します。何で正しいことを教えているのに飲み込んでくれないのかとか、やれば事態が好転することは明らかなのに、相手は何をぐずぐずしているのかというたぐいの苛立ちは、ある程度以上の年齢になれば誰もが経験のある感情だと思います。
しかし、例えどれだけ価値があり、可能性を秘めたものであったとしても、受け入れる当人にとって必要でないもの、消化しきれないものは、食べきれない料理にしかなりません。時には、当人が欲しいものであってさえ、そうなる可能性はあります。
よく知りませんがテレビドラマとかを見ると、(運動などで)体力をつけなければいけないというので泣きながらものを食べるような場合もあるようです。状況が許してくれなければ、吐きながらでも気が狂いそうになりながらでも、飲み込むしかないときもあるでしょう。
ただできれば、そんな不幸な『価値ある』食物は、この世に少なくあってほしいとは思います。自分に関して言えば、例え毎晩命がけで詰め込んだところで、私の胃腸はあの料理を食べきれるほど丈夫になることは決してないだろうなという予測がつきます。それを思っても、別に不幸ではないのですが。
追記: ここまで書いて思い出したのですが、もとの民宿の料理も量だけ見れば決してホテルにひけをとるものではありませんでした。ただ、そっちの食べ物は残しませんでした。 別に大した差があったわけではありません。母の作った料理に似ていたのです。
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