K先生はフィリピンから帰ってこられた、元日本軍の兵士でした。うちの高校は学校自体がかなり古かったのですが、先生も負けず劣らず古株が揃っていて、K先生も含めて最古参の方々には、私が覚えているだけでも三人は第二次世界大戦当時の記憶を生き生きと留めている方がいらっしゃいました。
それぞれ、忘れることのできない話を語ってくださった先生方でしたが、ことにK先生の語り口調は、長年の教師生活で培われた名調子も相まって、未だに高校生活の主要な一部というほど印象に強く残っております。
その中で、最も印象に残ったお話です。敗退期のジャングルの中の逃避行で、K先生は一人また一人と戦友を失っていきました。自決用の手榴弾で自ら命を絶っていく負傷兵の間で、先生は彼らを力づけ、何とかして共に日本へ連れ帰ろうと必死になられたそうです。
そういう負傷兵の中に、K先生をとても慕ってくれた人がいました。状況がいけなくなったときに、その人は当時としては貴重品だった「二色ボールペン」を出して、受け取ってくれるように頼んだそうです。
『これはいよいよ弱っている』と思った先生は、特に注意を払ってその人をかばうように努めたそうです。自殺しないようにと。先生は既に何人分もの遺品を預かっていました。それが更に増えるようなことは、真っ平だったんだろうと思います。
行軍は続き、その間にも米軍は迫ってきます。何かで先行して状況を偵察してこなければいけなくなった先生は、ずっと連れ歩いていたその人に「今からここを離れるが、すぐ戻ってくるから、動かないで待っていてくれ」と何度も何度も言い聞かせ、それからその場を離れました。
……離れた途端に、手榴弾の爆発音が響いたそうです。
K先生はその二色ボールペンをまだ持っていると言い、さらに決然とした口調でこう続けられました。「誰かを心配したいと思ったら、遠くでどんないい心を持っていたってだめなんだ。どれだけ立派なことを言ったって、目の前にいなければ何の役にも立たん。そういう人の傍を、絶対に離れるんじゃないぞ」と。
また、学生時代の思い出です。初めてつき合いはじめた彼氏とどうしてもうまくいかず、ついに『人とつき合うってどういうこと?』と泣き言を垂れた私に、友達は呆れたような口調で言ってくれました。『好きな人と、一緒にいるってことだよ』と。
この時は恋人の話限定でしたが、世界の中である人と別の人との縁ができるということは、詰まるところそれに収束するのではないかと思います。一緒にいるということ。傍にいたいと思うこと。実際に傍にいること。生き物の法則にしたがって、どんな人々であろうとそれはついには虚しくなってしまいます。しかしそれでも、いやだからこそ、もしかするとそれはその人の、人生自体を表すほど重要なものになるのかもしれません。
K先生の時代の厳しさに比べれば及ぶべくもありませんが、我々もまた主観的な戦場を生きています。少なくとも、自らの身を兵士の誇りをもって処している人にとって、戦うものの掟は決して他人事ではないでしょう。何十年経とうとその想いを捨てなかったK先生を、私は今でも心から尊敬しています。
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