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ムシトリ日記
加藤夏来
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2005年07月20日(水)
教養とか文化なんですが……

むかしむかしのそのむかし。

学生時代、一般教養のコマが何単位かありました。言い忘れてましたが、大学は田舎のちっちゃい工業大です。「工業大学だからって教養を無視しすぎるのは良くない! 文系の授業もそれなりに取ろう!」という方針があったらしく、学校の成り立ちにしてはその方面が充実していたようです。比較対照がないのでよくわからんのですが。

ちっちゃい大学はちっちゃいなりに、田舎の市では唯一の国立大学だったりしたので、「○○市の概要」みたいなデータページでは、文化施設として真っ先に名前が挙がったりしていました。

しかし、機会あってそれを見ることになった学生は、男も女も口を揃えて「ねェよ」と吐き捨てたものです。謙遜とかでなく、心底軽蔑しきった表情で。その通り、文化というものの正体はいざ知らず、学生教授とも自分たちのやっていることが教養や高雅とは程遠いものであることは、皆が自覚していました。

別にそれは日々の作業が、バイオハザード(生物汚染警告)の出ている扉の内側でシャーレをいじることだったり、アセトン(ほぼ、マニキュアの除光液です)や液体窒素をざぶざぶ汲み上げることだったり、鼠の子供の頭をハサミでぱっちん☆と切り落とす(脳の小片をガラス板の間で培養します)ことだったりするからではありません。いや、それも多分にあったでしょうが、真の理由は学んでいるのが、あまりに単純な原理にもとづいていたことだと思います。

と言っても、別に情報量が少ないわけではありません。最低の学生だった私はともかく、同僚の学生諸兄はじつによく論文を読みました。しかし、それらの膨大なデータは結局のところ「で、この目の前にある実験をどうすんの?」という目的のためのみに使用されるという点は変わりありませんでした。反応温度を何度にするか。どの金属を配位させるか。カラムにはどの移動相を使うか。結果さえ出れば論文はファイルに閉じこまれるだけです。内容を覚えておく必要もなく、どこにどのデータが入っているか分かりさえすればよろしい。

最近影響の大きい向きより、先方の専攻していた分野について「美しい学問でした」なる発言を聞いて、その世界観のギャップにビビったことがあります。「さすが、文系の人というのは物凄いことを考えてはるなあ」という気分でした。よく分からん例えかもしれませんが、愛用のスパナやNMRやフラスコを指差して、「 ……で、それについてどう思う? 」と聞かれたような……。意味とか解釈とか世界観とかは(少なくとも私の見た限りでは)工学には無いか極端に少ないものでした。あるのは「役に立つのか立たんのか」、企業に入るともっとあからさまに、「いくら儲かるの?」……これだけです。

今思い返してみると私が生活してきたのは、恐ろしいくらい「実体験至上主義」の世界だったとも思います。えらい先生の書いた本に、いくら「これこれこうすれば目的物は取れますよ」と書いていようが、実際やって手に入らなければ、その知識はクソの役にも立ちません。現実に本の通りにやって一ヶ月も止まっていた同僚の実験を、ぜんぜん違う手順をアドバイスして成功させたこともありますし、その逆もあります。手の中にあるフラスコの中身、目の前で起こった反応以上に信じられるものなど、この世のどこにもありませんでした。(勿論、大抵は知識はあった方が役に立ちます……でも、『実際やったことのある人の経験』はもっと役に立ちます……)

冒頭の話に戻りますと、私たちは自分らがやっている活動を文化的とは到底思えませんでした。だって作業だし、という話は置いておいても、それらは他の人の活動の上に積み上げていく、という感覚が非常に薄いものだったからです。いきおい、目の前にあるもの以外のことは考えない癖がつきますし、言葉は言葉どおりに受け取ります。「AはBです」っつったら、それはそれ以上でも以下でもありません。



古典文学の解釈をするとき、それじゃ話は済まないんだと知ったのは、つい昨日の夜のことです……。



いきなり何の話だと思われるでしょうが、ここの管理人は最近何週間だか「教養を高める必要がある」という危機感に駆られていたと思ってください。原因は大したことでもないんですが、どうやら自分には想像もつかない世界があるらしいと思ってたまげたようです。

で、薄い本から手をつけ、読み終わって感想を話したら、呆れられました。……時代背景。文化的な位置づけ。当時の神と王の概念。女性の立場。または、これまでの研究によって導き出された解釈。そういう知識の裏づけの上に読むんでなければ、そもそも読んだことにはならないみたいです。

ていうか、よく考えてみればそういう知識の裏づけ部分を習得するからこそ、古典が教養ということになるんでしょうね。気づくのが遅いな。

ただ、そう言われてもう一回原典を読むだけでも、分かることはあります。一つは(ものが古典劇だったので)舞台を見ないと分からんことがあるな、ということ。演劇というのは因果な芸術で、基本的に咲いて散る花火です。二度同じものは作れませんし、ビデオにとってもやはり『その空間を共有している』という状態は残すことができません。(そこに永続性を持ち込むために、仮面劇という芸術形式が存在したという程度の教養はあるー……)もう一つ、残念ながらこの作品は、どうしようもなく既に墓に入っているということです。さすがに二千五百年を耐え切れる言霊は存在しません。となると反魂の儀式を執り行うために、やはり一定の手続きが必要だということになるでしょうか。

結局何の話かというと、どえらい新機軸な分野の勉強のために無い知恵を絞ってるという現状報告だったりします。ただし本屋を五件回っても資料が一冊も手に入らなかったため、やっぱり原典を読み返しているんですが。