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----------2005年11月02日(水) あなたがその背に負っているもの

すべては、何もかもすべては、「責任」という一点に向かって収斂していく。なんだかよく知らないがとにかくこの世に生れ落ちると同時に人はその身体よりもはるかに大きな荷物をずしりと背中に乗せられる。ベビーベッドで泣き喚いているときはそんなものには気づかない。ランドセルを背負う頃になってようやく何かが背中に乗っていることに気づき始める。そうしてランドセルを脱ぎ捨てると同時に背中の荷物からの逃走を図る、「誰にも迷惑かけてないんだから何をしようが私の勝手でしょ!」。どんなに強がってみたって結局は親権者同意欄の署名がなければ携帯電話の一本も持つことはできないくせにね。

何をしようが私の勝手、という言葉が法的に認められると同時に人はようやくその背中の重みの意味を問うてみる気になる。これは何か。何が乗っているのか。何ゆえこんなに重いのか。「そんなのしらなーい」、という人はこの際窓から投げ捨ててかまわない、そういう人は多分親権者同意欄に自分で署名し引き出しから印鑑を失敬して契約した携帯電話の料金を滞納してブラックリストにのせられているくせにそ知らぬ顔で新規契約を申し込み「そんなのしらなーい」とすっとぼけてみせる人だ。

一度問い始めるときりがない。昨日の続きになるけれどこうやってウェブ上に文章を登録しているからには文責を負う「責任がある」、給料をもらっているからにはその給料にみあうだけの労働を提供する「責任がある」、排泄をしたり洗濯をしたりして水を汚すからにはその水を浄化するための税金を支払う「責任がある」、呼吸をするからには自ら進んで二酸化炭素を排出するのを抑制し、なおかつ酸素を供給してくれる緑を増やす「責任がある」、エトセトラエトセトラ。

ビールを飲んだらゴブレットを洗う「責任がある」、空き缶を資源ごみに出す「責任がある」、要するに責任がつきまとわない行動は一切ない。一挙手一投足が重く、億劫に感じられるのは生れ落ちたときに誰かに、私の語彙で言えばカミサマ、によって背負わされた「責任」という名の重荷、軛が身体に食い込んでギリギリと骨を削るからだ。

それは義務ではなくあくまで責任である以上放棄することも可能だけれど私はそういう人を一切信用しない。