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----------2005年03月26日(土) ピースマークをおくるぜ、この素晴らしい世界へ

「人間の悲惨は、人間が神ではないということにある。人間は常にこのことを忘れている。」(シモーヌ・ヴェイユ「カイエ2」/みすず書房)

神様はそれ自身で、たったひとりで完璧な存在だったけれど、「寂しかったので」とりあえず世界を、人間をつくってみた、っていうような話を何処かで読んだような気がしたのでアーサー・O・ラヴジョイの「存在の大いなる連鎖」(晶文社)を久しぶりに手に取る。

そしたらそんなことは何処にも書いてなかったけど、完璧なものだけでは「すべて」にならないので完璧でないもの、不完全なもの、要するに「死すべき」存在をも作らなければならなかったのだ、ってなことが書かれていた。プラトンのデミウルゴスは「世間にはあらゆる人が必要である」と判断した、らしい。

あなたの悲しみも苦しみも寂しさも、私の憎しみも疲労も、この世が「完全」である証拠。

ありとあらゆるものが溢れかえって隙間なく世界を埋め尽くしている。

不完全なものの総和が完全なものになる、というパラドックス。

高校3年生のとき、浪人が決まって落ち込んでいた友達に、「ジンセイ無駄なことなんかなにひとつないって」と言ったことがある。カオリちゃんは優しい子だったので、14枚もの合格通知を手にして前途洋々だったはずの私が言い放った言葉に「そうやよな」と笑ってくれたけれど、カオリちゃんはその翌年志望校に合格して、そうして某TV局に就職し、そこで出会った男性と恋に落ち、ジンバブエのバオバブの木の下でプロポーズをされて、今では二児の母である。

私は今、自分が言い放った言葉に「そうやよな」と言えないけれど、どうしようもなく無駄なように思われる自分自身という存在も、神様の視点から見れば必要な「無駄」なのかもしれない、と思うと少しだけ楽になった。

さあ、K−1でも見ながら酔っ払うか。