index|
back |
next
----------2005年03月18日(金) 「わたし」
「かれらが喚きはじめると、世のなにものからも聞いてもらえないということを思いしらせることだ。事物からも、人間からも、神からも、わたしからさえもである。 これらの動物は、わたしのなかで、悲哀、歓喜、勝鬨、恐怖、煩悶、苦痛など、感情のあらゆる色調を備えたさまざまな調子で、あきもしないで「わたし、わたし、わたし、わたし、わたし」と喚くのである。 この叫びにはなんの意味もない。なにからも誰からも聞かれてはならない。」 (シモーヌ・ヴェイユ「カイエ4」/みすず書房)
あらゆる表現、発話、行動の裏にはこの「わたし」が張り付いている。何故「わたし」はそうするのか。何故「わたし」はそれを望むのか。「わたし」の重さから逃れるためにシモーヌは必然を愛した。
「わたし」はそれほどに穢らわしい。
「わたし」の悲哀、「わたし」の歓び、「わたし」の苦悩、すべて醜い。誰にも何にも知られる価値はない。
「わたし」の声に耳を貸さないこと、「わたし」を見捨てること、「わたし」を殺すこと。
そうして私は必然の奴隷となって何も望まず何も拒まず黙り込んですべてを許す・・・
そんなあり方を卑怯で弱い、と感じるようになったのはつい最近のことで、私の中で荒れ狂う「わたし」と喚く獣たちは存分に声を与えられて私を食い破ってでもかまわないから世に放たれるべきであると思い始めたのもつい最近のこと、さあ、私は堕落したのか?
すべての責任は私にある、さあ行け、「わたし、わたし、わたし、わたし、わたし」、と吠えたててこい、そうして他の「わたし、わたし、わたし、わたし、わたし」たちと刃を交えてくるといい、ベッドに横たわって「わたし」を黙らせるために一日を力なく過ごすよりもそのほうがずっと、いい。
|