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----------2005年03月17日(木) ガラスを割れ

「われわれは、光に惹きつけられているが近づけずにいる、壜底に貼りついた蠅のようなものだ。
 しかしながら、一瞬たりとも光から身をそむけるよりは、無窮の時間を通じて壜底に貼りついているほうがよい。
 光よ、同情してくれるか。無窮の時間の果てにガラスを破ってくれるか。
 たとえそうでなくてもガラスに貼りついたままでいること。」
(シモーヌ・ヴェイユ「カイエ4」/みすず書房)

斜体にしたのは私。おそらくこの一文が「カイエ」1から4にわたって展開される自虐的な思想の中で唯一シモーヌが本音を吐露した瞬間。掛け値なしの本音だ、と私は思っている、だからこそこのなんでもない一節をひどく愛している。

だって何も望むこともなしにただ耐えることのできる人間なんて存在していない。耐えるとき、たとえ無意識にであっても、人は何かを期待している、何らかの報いを待っている。

低みを這いずり回ったなら、のた打ち回ったなら、いつかきっとこのガラスの壁は割れる。割れないわけがない。

基本的にシモーヌはいつも待つ、待ち望む。だけど私は学んだ、待ったって、どれだけ耐えたって、存在すら気づいてもらえない、ということを。伝わらない、壜の底にこうして貼りつけられているから助けてくれ、ガラスを割ってくれ、と声に出して叫ばなければ誰も気づかない、「低みを這いずり回ったなら、のた打ち回ったなら、いつかきっとこのガラスの壁は割れる。割れないわけがない」、そんなのは稚拙な神秘主義にすぎない、光は同情なんかしない。

己の拳を血に染めてでもガラスを割るべきだ。

もしも光に惹かれるのならば。