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----------2005年02月25日(金) 泣かせて、歌わせて
「【涙と音楽とを私は区別することができない。】(ニーチェ)この言葉の意味をただちに了解することのない者は、いまだかつて音楽に親しんだことのない者だ。およそ真の音楽は、楽園への悔恨から生まれたものである以上、例外なく涙に由来する。」(E・M・シオラン「涙と聖者」/紀伊国屋書店)
では涙と言葉では?
音楽が涙に由来している、当たり前のことだ、そんなことは。ご大層なセンセイがたに語ってもらうまでもない。上手く歌えなくて泣いた、思う声が出せなくて泣いた、死んでしまいたいとすら思った、自分の生得の声が甲高く金属的で深みを持っていないことにどれだけ悩んで泣いたかなんて誰も知らないだろうけどとにかく私が放つ音楽は涙に由来していた。
それは、あいつだけが理解していた。
いつしかファルセットを使いこなすようになって いつしか高く張りのある声だけに価値があるのではないことを知るようになって
思うような声が出せるようになったとき、あいつはもういなかった、ただ力任せに強い声を出すだけの女を選び、「楽しければそれでいい」とかつて私たちが蔑んだはずの道を選んだ。
そうして私は今、あいつがそれを「楽しんで」いず、むしろ自己嫌悪に陥っていることを知っている。
そんな男はあんたにあげるから、 熨斗紙つけてあんたにあげるから、
だからそんな男を神様に仕立て上げた私を泣かせて。
どんなに書いても、どれだけの言葉を費やしても、私の奥底で泣きたがっている自分の12年間を心ゆくまで泣かせてやることができない。言葉はいつも客観的だ、鬱陶しすぎるほどに客観的でまわりくどい、私の感情とはまったく無関係な「文法」という厳格なものに縛られすぎている、
だから歌わせて、腹筋に力を込めて、鋭い声で嘲笑を投げつけ、そうして力を抜いた優しい声ですべてを許してみせるから。身体で、心で、存在のすべてで、涙を流してみせるから。
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