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----------2005年02月11日(金) 「対象f」
「ことばの体系のなかでこうしてかき消された「私」は失われた調和と全体性を取りもどそうとして、「対象a」を欲望する。それは対象aがことばによって象徴化しきれなかった残り物として、失われた世界への通路をしめしているからだ。」(中沢新一「ポケットの中の野生」/岩波書店)
いいのかな・・・、まあ、いっか。
「対象a」が私を押しつぶしにやってきた。それは限界を知らないかのように次から次へと湧き上がってきては「私」をへりの部分へおしやっていく。本来意識と非意識の境界部分で揺らいでいるはずのものが時折こうして意識のどまんなかに浮かび上がってくる。もちろん「対象a」である以上言語化することなんかできない。区切りをつけてやることも、整理することもできない、ひたすらぐちゃぐちゃの、べちゃべちゃの、どろどろの、非定型なものとして増殖を続ける。身体の粘膜にへばりつき、息を詰まらせ、果てのない嘔吐感としてだけ認識される。
私は象徴化に失敗している、すなわち精神の均衡を欠いている、だから正常な言葉の繋がりを見失っている、S◇aだって? まさか、Sは去勢を受けていない、対象が存在しないのだから禁止なんか知らない、制限も知らない、受け止めてくれる器がないのだから際限なく拡張する、S≦a、それはあまりにも恐ろしい地獄的な構図じゃないのか?
こうして判断力を持っているはずのS、「私」は周縁へ、自分の端っこへ追いやられていく。意識の中心に居座っているのはfでありsでありnであり、今のところ言語化するメドなんて到底たたないからラカンの「対象a」とはまったく無関係だけれどとりあえず「対象f」だとか「対象s」だとか「対象n」だとかいうことにしてみても事態はちっともかわらない、ねえ私狂ってるんじゃない?
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