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----------2005年02月08日(火) それは言い訳に過ぎない
「とにかくわたしには、自分が気がヘンになりそうだということしか分んない、とフラニーは言った。「エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようなことかなんかをやりたい、面白い人間になりたいってそればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ―ほんと、ほんとなんだから。人が何と言おうと、わたしは平気。」(サリンジャー「フラニーとゾーイー」/新潮文庫)
それがゲームを降りる理由、IMIに足を向けない理由、100枚近く書いた原稿を真夜中にCtrl+Xで削除する理由、何かが形になりはじめると気持ち悪くなってくる、とてつもなくいやらしいものに見えてくる、自分の中にある攻撃性がむくむくと力を持って一刻も早くその排泄物を壊してしまえと語りかけてくる。
多分書きたいことはある。
けれどロラン・バルトの定式にそって還元していけば「鬱陶しい」と真っ白な紙に真っ黒なペンで大書きにすれば済むだけのこと。詳細を克明に綴る―たとえば時系列を整えて。たとえば第三者の視点から。たとえばはっとするような比喩を用いて。等々―うちにすべての装飾をはぎとりたくなってくる。
生活とか年齢とか虚栄心とかの要請から私はモノを書こうとしている、けれど書き上げる前からうんざりしている、いやらしいと感じている、そうして本当に書きたいのかどうかを見失ってしまう。
うんざりさせる、いやらしいと感じさせるものしか書くことのできない人間が「理由」というとき、それは「言い訳」に置き換えられる、ってことくらい、知ってる。
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