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----------2005年02月07日(月) もう、自分に、飽きた。
「ひとりっきりで、何をしていなくても、時間を無駄にしているわけではない。誰かと一緒にいるとき、私たちはほとんどいつも時間を浪費している。自己との対話は、たとえそれがどのようなものであれ、まったく不毛なものというわけではない。いつの日にか己を再発見するという希望にすぎないとしても、必ず何かが生まれるはずである。」(E・M・シオラン「悪しき造物主」/法政大学出版局)
かつてひとりっきりの時間を過ごしていたころ心の糧にしていた言葉。今も私は何処にいても誰といてもひとりっきりの時間を過ごしているけれど、あのころと同じようになんらかの心強さを感じさせてはくれない。自己との対話、それこそが不毛であると感じる。誰かといるとき時間を浪費している、と考えるその裏には、誰かよりも自分に価値があるという暗黙の前提がある。誰かの中にいて自分を滅却させてしまうことに価値をおかないのは、自分を本当に疎ましいものと認めていないことの証左だ。誰かよりも我を愛す、おそらくシオランはその手の思想家だ、絶望、崩壊、災厄、そんな物騒な言葉を多用したとしても、シオランには確固たる「自分」がある。
多分ひとりっきりでは何も生まれないだろう、再発見するべき己なんかはとっくの昔に朽ち果てているだろう。
自分と向き合うことは苦痛だ、おそらく彼女たちとのおしゃべりの間で昨日のことも明日のことも忘れ去っておくほうが、ずっとずっと、楽だ。もう、自分には、飽きた。
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