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----------2005年02月03日(木) Fとの生活
「わたしはFをどのように愛しているのか? 十全な愛。わたしはどのように愛することが出来るのでしょうか? 本当にわたしは愛してしまったのか? わたしが愛しているとしたら何故なのか? わたしは何故愛するのか? わたしが愛しているのはFなのですか?」 (金井美恵子「愛の生活|森のメリュジーヌ」/講談社文芸文庫)
私の地の文じゃ、ないよ、引用。この一文だけであまりよくは知らない金井美恵子という作家を愛するに足りる。FがEだったりGだったりしたらまた話は別だけれど。
時々空想する。もしもFが此処にいて、という空想。多分私は「豆まきしよう」と言うのだ、お寿司屋さんでもらってきた鬼のお面にちゃんと輪ゴムを通してから。「阿呆、俺どんだけ仕事して帰ってきたと思ってるねん」とFは文句を言う。けれど私は気にせずFにお面をかぶらせて豆を投げつける、するとFは少しの間だけ調子に乗って遊んでくれる、けどすぐに「あほらし、やってられるかボケ」と言ってお面を投げ捨てるだろう。そうして多分二人であほらし、といいながらもちゃんと西南西を向いて太巻きをまるかじりする。あんたさあ、頼むからもうちょっとキレイに食べてよ、と私は文句を言うだろう。「ああ? んなもんまるかじりなんやから食いたいように食ったらええんじゃ」というFの顔が目に見えるようだ。
たとえばアクセル・ローズの夢を見て身体中汗びっしょりになって飛び起きた朝なんかは特にそういうことを空想する。なあ、あたしアクセルの夢見た、と呟いたときに大笑いをしてくれる人であったらFでなくてもかまわないのかもしれない、とはあまり思わない。
やっぱりFでなければならないようなそんな気がする、理由は何年経っても分からないけど。
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