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----------2005年01月20日(木) 結局、同じこと。

「すべての深淵は、たった一つの深淵しかつくり出さないのである。(・・・)あらゆる相違は巧みに欺く類似であり、《他》は《同一物》の逆説的状態である。慣用的言い回しを使ってより乱暴に言えば、《他》とは結局《同じこと》なのだ。バロック的世界とは、こうした視覚の苦痛が表現の幸福のうちに解消する−完成する−感動的詭弁である。」(ジェラール・ジュネット「フィギュール〈1〉」/書肆風の薔薇)

もう「私が誰かと違っている」、なんていう錯覚はうんざりだから。何も変わらないから。「私」であろうとする努力なんてどこまでいっても絶望的だし、「私」に固有の思想もなければ思弁も語彙も特徴もないし苦悩もない、痛みもない、不幸もない。まったく「孤独」な人間、という存在はありえない。「私」はつねに、すでに、共有されている。

まわりを見渡せば吐き気を催すほどの多様性に圧倒されるけれどそれこそが「巧みに欺く類似」だ、と気づいて本当に吐きたくなった。

・・・このように文学理論はすべての表現から意味を取り去ってしまう。一篇の詩を解説しているそぶりをみせながら、多様な解釈を展開しているようにみせておきながら、実は・・・の一種です、亜流です、と言い放ってしまうための「理論」。まあそもそもテクストを再生産するための手段なのだから存在じたいがバロックなものなのだけれど。そうしてその文学理論の感動的詭弁も今世紀完全に沈黙している、その沈黙しているものを再び取り上げている私もまた、あなたと同じ深淵に取り込まれているだけのことに過ぎない。