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----------2005年01月13日(木) おしゃべりと、気ばらし

「人間生活のみじめさから、すべてこのようなことは生じた。すなわち、人々はみじめさを見たので、気ばらしを求めたのだ。」(パスカル「パンセ」/白水社イデー選書)

「パンセ」を開いたのはどうやら10年ぶりくらいであるらしい、なぜなら「Kansai Tele Massage」の「フリーワード一覧表」がさしはさまれていたから。ポケベル。そんなものも、あったね、「ア」は「11」、「イ」は「12」、そんなこと、やってたね、懐かしい。

ちょうどポケベルを使っていたころの友人に今日会った。「モッキンバードがなくなったらしい」「キャベツハウスはまだあった」「衣笠がつぶれてた」「ケープコッドはあいかわらずだ」「やっぱりボルカノの上をいくスパゲッチにはいまだめぐりあえない」「ジュエルはまだあるのか」「パレットはまだあるぞ」「なによりも1グラがなくなったことがさみしくてならない」、そんな話を数時間して、お互いあまり変わっていないこと(遜色ないよ、だって。お世辞でもうれしいよ)、相変わらず理想と現実の大きすぎるギャップに苦しんでいることを確認しあって、「今年こそ」ととりあえず言ってみた。だけど私は多分今年も何も変わらないであろうことに薄々気づいている。

いつも逸れていく、誰かと何かを話すたびに「核心」から遠ざかっていく。私たちはおしゃべりを繰り返しながら、逃げている、忘れている、誤魔化している。今現在、という唯一の時間と対峙することは恐ろしい。だから過去を振り返り、そうして未来を語り、気ばらしに現を抜かすのだ。

心地よい気ばらしをありがとう、それは時に明日を耐える理由くらいにはなりえる。