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----------2005年01月12日(水) 生活は空想の婢
「あの人いつも歩きまわって空想ばかりしているのよ。あの人はこう言うわ。なぜ本当に生活する必要があるだろう、空想しているほうがずっといいのにって。空想ならどんな楽しいことでもできるけど、生活するのは退屈だ、なんて。」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟(下)」/新潮文庫」)
生活がなんだか知らない。けれどとにかく退屈だ。どうしようもなく退屈だ。だから何かで埋め尽くさなければならない(多分明日あたりはパスカルを引用していそうな予感)、空白は恐ろしい、凡庸で低俗な笑いが自分の中に侵入してくることが許せない(そのうち多分ベルグソンも出てくるような予感)、かといって眠りに自分を明け渡すことは怠惰の罪を貪っていることと同義である(常に目を開けていなければ云々、と書いたのはフーコーだったか?)、だから私は空想するのだ、ありえたかもしれない、ありえるかもしれない、若しくはまったくありえないであろう、物語を。
1974年のある日彼女は生まれた、大阪という狭苦しい、薄汚れた街の、日生病院という古い病院で。父と母の間になにがしかのロマンティックなやりとりは一切必要ない、むしろそれが欠けていることが後に唯一の決定的な条件になるのだから。その日は晴れていた、梅雨の合間にさしこまれた見事な青空が彼女を祝福していた、ようにも思われた。母と、祖母と、そして父ではない男は彼女が初めてこの世で発した声をレコードに録音した。こうして彼女は生れ落ちた瞬間から記録され続ける。
ただ第三者に記録されることによって ただ第三者に語られることによってのみ
「生存」が証明されるのならば
・・・生まれたはずの彼女は、そのとき、同じ日、同じ場所で生まれた別の赤ん坊の脳内に幽閉された。いつしかその赤ん坊が成長し、ものを読み、ものを書くようになったならば彼女は解放されるだろう。そうしてその赤ん坊を内側から食い破り、身体を乗っ取るだろう(近いうちワイルドも登場するに違いない)。私はただ、「彼女」を創りだすためだけに、若しくはサルベージするためだけに、己の時間を空想に明け渡す。
彼女のほうがはるかに、私より強靭な時間を生きている。生活よりも空想のほうがずっといい。そこではすべてが可能だ、そう、彼を取り戻すことですら。
生活は空想の婢である。
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