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----------2004年12月23日(木) 赦して。
「するとシモーヌは、ベッドがわりにしていた寝袋にくるまってじかに床に横たわり、そのまま食事もとらず、ときには何日ものあいだ虚脱状態にあった。頭痛はどうかとたずねられると、彼女はこう答えた。「神様の裁ちそこないですもの、こんなことはあたりまえですわ。」これが彼女の十八番であり、口ぐせだった。」(ジャック・カボー「シモーヌ・ヴェーユ最後の日々」/みすず書房)
ヴェイユ、ヴェーユ、ウェーユと様々に表される「WEIL」だけれど私は今までに出したレポートや論文においてすべて「ヴェイユ」で統一してきたのでこれから以降も「ヴェイユ」で。
でもよく考えたら修士論文には「ヴェイユ」の名を一度も出していない。感情的になるのを避けたかったからか。今になってそれは非常にもったいないことだったと思う、マルキオンとヴェイユについて章を割いたってよかったんじゃないか、って。
マルキオンの神は創造とは一切関わりを持たない。だからこの「裁ちそこなわれた」世界に対してなんら責任を負わない、にも関わらず養子縁組を申し出てくださる。キリストはまったくの「他人」である、救済は同情であり、純粋な恩寵である。
自身ユダヤ人でありながら旧約聖書を認められないという理由で生涯教会のそとにとどまり、「マルキオンの何がいけないのか」と言い放ったヴェイユはこの「裁ちそこない」の世界に一切善は実在しないと断言し、善の可能性をすべて彼岸に、実在しないものに賭けた。
両者に共通しているのは、「神様がこんな世界をお造りになられたはずがない」という覆し難い信念。17の世紀を隔てて結び合った世界拒否はただこの世となんの関わりももたない救済だけを求めて響きあう。
それがない、ことはもう知ってる、通販で売り買いされる十字架やロザリオの中に神様なんかいない、神父の衣服の裏に隠された欲望、教会の陰に潜む金銭、巧妙に張り巡らされた支配と服従の構図、全部知ってる、分かってる、それでもいい、
もう何もかもを否定することに疲れた。
もしもそのドアが開けられるなら、私はきっと跪く。
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