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----------2004年12月15日(水) ふぐは貨幣の夢を見るか

「絶望のきわみで、ただ不条理への情熱だけがカオスを悪魔的な輝きで飾り立てる。倫理的、美的、宗教的、社会的のいかんを問わず、今はやりのあらゆる理想が生に方向と目的とを与えることができないとき、なお生をどうして虚無から守ることができようか。」(E・M・シオラン「絶望のきわみで」/紀伊國屋書店)

モノ、モノ、モノ、モノ、モノの洪水が押し寄せてくる12月。これだけのモノをいったい誰がどのように消費するのか? これだけのモノの底にどれだけの黒い悪意、詐欺、欲望が渦巻いているのか? すべてを操っているのは貨幣である、すべてに値段がつけられている、貨幣はカオスを創造し、わずかな希望と多大なる絶望を人間にもたらす精霊である。

そうして群れからはじきとばされた私は裏通りを歩く。此処は私の生まれた街であり育った街であり虚飾を誇る表通りのきらびやかなビルの陰で蜘蛛の巣のように張り巡らされた路地にはいまだタカコちゃんのおかあさんが経営する喫茶店がありカジタくんのおとうさんが時計屋を営んでおりたっちゃんのおばあちゃんはタバコ屋の軒先に座り続けている。けれどきっとそのうち華僑の息子があの一帯を買い占めて巨大なパチンコ屋を建てるだろう、そうして虚ろな人々が虚ろな目で銀色の小さな玉に貨幣の夢を見るだろう。

ふぐ屋の前を通りかかったとき水槽のふぐと目があった。ふぐはのっぺりと、つるりとしており、口を半開きにしてぷかぷかと生気なく漂っていた。今夜あのふぐは鋭い包丁で切り裂かれ薄く薄く身をそがれるだろう。少しだけふぐが羨ましかった。

交差点では黄緑のジャンパーを着た若い男が「今なお20万の幼い命がこの難病に苦しんでいます、学校にも行けず、病院のベッドで・・・」と募金活動をしていた。私の耳元で鳴り響く絶望の色をした「imagine」をすり抜けて聞こえてきたその男の声もまた絶望していた。私はその男の横を、募金箱には目もくれずに通り過ぎた。

みんな通り過ぎていく。なにもかもが通り過ぎていく。ならばいまさら何を望むことがあろうか。冷たい水槽の中で死を待つふぐのほうが多分幸福だ。