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----------2004年12月14日(火) たとえ溺れたとしても

「書くのは好みというよりは衛生学によることであり、書く作業は内面の健康に関わる行為、「平熱」にもどるひとつの方法である。」(シルヴィー・ジョドー「シオラン―あるいは最後の人間」/法政大学出版局)

だから私は毎日毎晩、右腕などは痺れがひどくなる一方だというのにキーボードを叩き続けるのだろう。とりたててほかにしなければならないこともしたいことも、ないし。

書いて、書いて、書き尽くしてしまえたらどんなに楽になれるだろうと思う。内側がからっぽになるまで書き尽くしてしまえたなら、どこをしぼってももう言葉の滓すら出てこないくらい書き尽くしてしまえたなら。けれど1つの言葉は10の言葉を呼び出し10の言葉は100の言葉を連れてくる。書けば書くほど言葉の海に溺れていく、そうして見失ってしまう。

書くことは疎外のはじまり以外の何物でもない。

自分から切り取ったものをディスプレイに表示させてみてもそれは決して自分に似てはいないのだ。

だから此処は必然的に「私の剰余部分」ということになる。登録ボタンを押したあとに訪れるのは「今日も義務を果たした」という安堵の念でありそうして登録画面を確認したあとに訪れるのは「今日もまたくだらないことを書いた」という悔恨の念である、そうして少し青ざめてみたりすることで平熱にもどるのかもしれない、今私にこれをやめることはできそうにない。