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----------2004年12月13日(月) 「不在」の耐えられない重さ
「人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間は重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか? 何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた? 復讐された? いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。」(ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」/集英社文庫)
昨日隣に座っていたはずの新人さんがいなくなった。一生懸命仕事を覚えようとしているのは分かるのだけれど私の目から見たって「どんくせえなこいつ」と思うような人であった。うちの職場ではすぐにクビが吹っ飛ぶ。そういえば昨日の夕方お人形SVが顔色変えて彼女を呼びつけにきてたっけ、そんなこともあったっけ、あと1週間もすればそんな人もいたっけ、になる、1ヶ月たてば誰も思い出さない。
おそらくそこにはドラマがあったのだろう、「頑張って覚えますから」「いや役に立ちそうにないし」(そのくらい顔色変えずに言うだろう、あの人なら)。そうして彼女は「クビになった」という重荷を背負ってとぼとぼと家路に着く。「どうして私が?」かもしれない、「またか・・・」かもしれない(おそらく後者だ、世の中には何処へいっても使えない人間が確かに存在する)、けれどそんなドラマはなんら大勢に影響しない。空席にはまたすぐに別の誰かが座るだろう。
そんなもの、か。
私は「彼」を忘れるだろうか。
「不在」の耐えられない重さがある、たしかにある。
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