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----------2004年12月09日(木) まず、信じること?

「ごく小さい子供の時代から墓場にいたるまで、だれでも罪をおかし、罪に苦しみ、罪を注意深く見守る、というようなあらゆる経験を重ねているにもかかわらず、他人は自分のためにつくしてくれるもので害を与えるものではない、というようにどうしても期待してしまうものが、どの人間の心の奥底にもひそんでいる。それが、なによりもまず、あらゆる人間の内部にあって聖なるものなのである。」(シモーヌ・ヴェイユ「ロンドン論集とさいごの手紙」/勁草書房)

これが、この期待こそがヴェイユの弱さであり脆さであり、そうして彼女の思想を悲しくまた美しいものにしている何よりも純粋なものである。けれど私の胸をもっともムカつかせる期待、でもある。ヴェイユは極端な存在だ。共感と嘔吐が常に混在する奇妙な存在。だからこそ何度でも読み返す価値があり、そのたびに多くのことを汲み取ることもできる。この10年近く、インスピレーションの源泉には常にヴェイユがいた。

非人間的なまでにつましい人である。
非人間的なまでに「自分に対して」だけ厳しい人である。
あらゆる人間に善の可能性を認めていながら自分に対してだけは決してそれを認めようとしなかった人である。

私は。

自分に対して善の可能性を認めないことは言うまでもなくあらゆる人間に対して善の可能性なんて欠片も認めない。

けれどこの文章に付箋が貼り付けてあったということは、やっぱりどこかで誰かを信じたがっていたんだろう。既にピリオドを打たれた期待がカサカサと心の中でささくれ立つ。

まず、信じること? 

できやしない。誰もが皆私から奪っていくだけだ、そうして私も奪い続ける、奪い合いの中にもしも裂け目ができ純粋な贈与が垣間見えたとしたら、それこそが本当に聖なるものだ。